「空っぽの中に身を置きなさい」

先週の金曜日に、一年全体を通しての講評があった。それと同時に二年次に上がれるかどうかの宣告もその際にされる。

 

私の番は最後の方だったので、クラスメイトたちの「こんなこと言われたの~」の笑顔の報告を聞きながら、自分の番を待っていた。

彼女たちの貰った講評を聞いている分には、やはり学校側は生徒をひとりひとりよく見ているなあと思った。INSASは、他の国立演劇学校に比べて大分生徒に主体性を預けるけれども、何だかんだ、遠くから愛情をもって注意を向けてくれている。

 

さて、私が何を言われたかというと、

「みずき、あなたのダメなところを言いましょう」

良いところの話は5秒で終わり、ストレートに「ダメなところ」と言われる笑(このような言い方をするのは、きちんと考えられてのことで、生徒ひとりひとりに対する対応も全然違う。)

私のこれからすべきは、俳優にもっと自由を与えること。

自分が「理想」とする姿に俳優を持っていこうとしないこと。

これは、もう本当にいや~まったく~と大きく頷いてしまう事項で、俳優として演出家にコントロールされることの不愉快さを知っているにも関わらず、自分が演出家の時はやってしまうという。このジレンマ。一番やられて嫌なことをしてしまう、というのが本当に恐ろしい。これも自分の一部なのであることを認めて、丁寧になくしていく作業が必要なのだろうけど、そういう部分があるというのを真に認める作業は苦々しいを超えて苦痛だろう、と想像しているというあたり、道はまだまだ長いのだろう。

 こちらの想像を超えて、俳優という生き物は、創造的であり、何より演劇はひとりでなくて複数人でやるところに面白みがあるのだから。

 

 

これに引き続いてあることを言われた。

何といっても、この二つ目のことが胸に刺さった。

 

Il faut que tu te laisses dans le vide.(空っぽの中に身を置きなさい)

 

この言葉を言われた瞬間、涙がばーと流れる。

悲しかったからとかではなくて、その言葉の意味さえ大して分からずも、泣いた。

それでも自分の中の何かが化学反応を起こしたかのように、目からぽろぽろと水が流れたのだ。

「ごめんなさい、なんだかもらった言葉に胸がいっぱいになっちゃって」

私がそう言うと、

「なんでかは、そのうち自分自身で分かるようになるよ」

と、ディレクターから言われる。

 

少し詳しく話してみると、最早「そこまで頭をアイディアでいっぱいにしなくていい。」とまで言われる。

これには、何か「色々なアイディアを持つよりも、一つのことを突き詰めて考えなさい」いうことや「些細なことで、いくらでも芸術的なものができる」といった趣旨とは全く違った響きがあるように思う。

いや、勿論そういったこともあるのだけれども、個人的には、私の在り方そのものを揺るがすような変革が必要なのだ、と言われているような気がする。

圧倒的な存在、例えば芸術作品とか、に出会ったときに、自らの存在基盤を揺るがされるような、ああいった感覚が、その言葉にはあったのだ。

 

先生たちからは最後に

「まあ、こうは言うけどね。私たちもまだまだ簡単には出来ないようなことだから。今からあなたには、そっちの方向に向かうようにおススメするわ。」

と付け足されて、講評が終わった。

 

正直、講評の日から数日経った今もこの言葉の意味は大して分からない。

 

空っぽの中に、あるものを見るにはどうすればいいのか。

そもそも、空っぽ、とは何なのだろう。

無?隙間?余白?余裕?

 こころを心底揺るがされたからこそ、こうやって文章を綴ろうとしても、大したことが出てこない。

 

 

あ、今まさに、この疑問の中において少し空っぽに近いかもしれない。

 

 

この疑問も、新たな好奇心も、知識欲も、すべてを育んでいくのに、有難いことに私にはたっぷりと長い夏が待っている。

因みに、二年次には無事に進級できました。

来年度、また元気いっぱい始められるように、夏は色々な面でチャージして、メンテナンスしに、日本滞在を満喫したいと思います。

 

 

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みんな会ってね!笑