これはピュリファイ。

ここ一か月程真夜中12時を過ぎても明るい夜を過ごしているのは、極北の国アイスランドにいるから。

この夏は、普段は離れて暮らしている恋人の住む国に滞在してる。此処を訪れるのはこれで7回目になるのだけれど、今回ほどにこの土地に流れる美しい空気と澄んだ水の有難さを感じたことはない。これは実を言えばアイスランドの環境が前より良くなったから、ということは勿論なく、それを受け取る側である私の変化にある。鼻から肺へ思いっきり吸い込んだ酸素は、口から吸いこむ時より、より多く深く私のからだの中に入ってくる。海辺を歩けばこの季節は波の少ない比較的穏やかなアイスランドの海の潮のにおいも一緒になって入り込んでくる。夏だ。永遠に続きそうなあの夏だ。

アイスランド人は、本当に他の人のことを気にしない。だから道を歩いていても、どこかのラテンの国の人々のように相手をじろじろ見ることなどなく、われ関せずと自分の目的地を真っすぐ見つめて歩いているようにみえる。その雰囲気に私も混じりたいぞ、と私も自分の身体中に纏わりついたあれこれを、ここぞとばかりにこの空気で浄化しようと試みる。それもあって到着してここでの生活を始めてから散歩ばかりしている。

夏だけど最高気温は17度程度のこの国の今の夜はというと、所謂白夜である。こちらに移動してきた夏至過ぎの6月終わりの時期と比べると、心なしか日が短くなっている。最近は夜中の12時あたりになると空は夕焼け時のようになり、薄いピンクとオレンジを混ぜたような、焼き立ての鮭のようなそんな色を帯びてきて、ああ季節は確実に移ろいでいっているのだなと感傷的になっていたのだが、数日前夜中の3時頃に目が覚めた際にカーテンの向こうに見えた空は床についた時分よりも明るかった。それを見て、自分が寝ている間の数時間の太陽の軌道を頭の中で描いてみたら、その孤の形の独特さに笑ってしまいたくなったけれど、その時は眠気が勝ってすぐにまた眠りについた。

 

 

首都のレイキャビクには規模は小さめだがいくつか美術館がある。その中でもアウスムンドゥル・スヴェインソン(Ásmundur Sveinsson)という19世紀終わりから20世紀おわりにかけて活動した彫刻家の美術館が特に気に入っている。美術館の建物自体は生前の彼の自宅兼アトリエとして使っていたものを少し改築しただけのものらしく、長方形とドーム状になっている球形を組みあわせたような個性的な形をして、閑静な住宅街の中にその姿を隠すかのようにしてある。敷地内にある建物を囲む小さな庭にも、いくつか彼の作品が置かれており、脇にぽつんとあるベンチをみて、先ほど自宅で食べたお昼をつめてここで食べればよかったかもしれないなあ、と思う。入ってすぐのカウンターで受付にこれまたひとりぽつんといる男性からチケットを購入し、その奥に続く空間へと足を運ぶ。小さいが風通しのいい真っ白なその空間は外側からみるよりも奥行があり、ドームになっているせいか自らが発する全ての音が想像以上に響くので、あまり雑音を立てないようにいつもより足下に注意を払って歩く。それは雪を踏みしめるような歩き方に似ていて、この国の厳しく長い冬は夏の中でもしぶとく思わぬ形で残っているらしい。そのようにしてふつうの道を歩くのよりもいくらか遅めの調子で進み、広すぎも狭すぎもしないその空間に整然と展示された彫刻作品をひとつひとつ見ていった。余談だが、広さを大体予想できる展示会は好きだ。個々の作品にどれくらい時間をかけてもいいのかが自分の体力と照らし合わせて把握できるから。それと合わせて、展示数の少ない美術館も好きである。

今回美術館を訪れた時期は、彼の師匠であったスウェーデン人で彫刻家のカール・ミレス(Carl Milles)の作品も展示されており、鑑賞者がこの二人の芸術家の作品を交互に見られるように空間が構成されていた。入口の説明には二人が師匠と弟子という関係を経て友人として互いに影響しあったとは書いてあったが、二人の作風は全く異なるものであり、なんだかオセロの白黒の石が交互に置かれているみたいだなと思った。そんな感想が一番最初に出てくるのだから、アーティストとしては勉強不足だよなと少々反省しつつも、よく分からないなりに、鑑賞客が自分たち以外いないことをいいことに鼻がくっつきそうになるまで近寄ってみたり、屈んで下から覗いてみたりしながらひとつずつ作品を見ていった。そんなことを繰り返していると、多少アクロバティックなその観賞法も手伝ってか自分の身体感覚が変わってきたのを感じた。作品それ自体に対して特別気に入ったとか、激しい共感を感じたとか、その造形美に驚嘆したわけではないのだが、なんだか自分の奥の方が洗われていく感じがしたのだ。空気は意識しなくても体の中に深く入っていくし、それが体中を巡って最終的に瞳に達して、普段はコンタクトのせいで乾燥気味な目が自然と潤う。視点が体の奥へ収まっていく感じがするし、頭のてっぺんが上へ軽く引っ張られる気がする、両二の足はさっきより確かに地面を感じている気がするのに、その全様は落ち着き軽やかだ。

 

 

おお、これは、ピュリファイだ。

 

 

浄化する、この単語が日本語よりもフランス語よりも最初に英語で出てきたのは、アイスランドに来てからは人と話す時に英語を使っているからか。頭の中に響いたその横文字は、purifyというオーセンティックな発音でなくカタカナ表記の「ピュリファイ」であったのは、それを思ったのが他ならない私であったからだろう。ピュリファイを頭の中で繰り返してみる。ピュリファイ、ピュリファイ、ピュリファイ。どうぞ私をピュリファイしてください、と願うように石の塊でしかなかったはずの目の前の彫刻を見つめる。今は形をもった石を。削りだされてから、この形としてこの世界に収まっている石を。

 

ねえ、何を考えてこれを彫りだしたのか、何があってこのようなかたちに彫ろうと思ったんだと思う?

 

そんなことを少し離れたところで別の作品をみている恋人に言おうとしたそんな矢先、

 

ただ彫ったんだ。目の前の素材をもってしてそうすべきと見えたから。

 

また別の言葉が脳内で響いた。自分の声だった。そうして続く。

 

これはね魂の問題なんだよ

―そうか

優れた芸術は魂で作られているんだよ

―そうなのか

だからピュリファイされるんだよ

―そうだよね

 

ピュリファイ。ピュリファイ。ピュリファイ。何度繰り返しても、ゲシュタルト崩壊を起こさないこのピュリファイは、何度も新鮮な輝きをもって私のなかで再生された。

 

その響きの中に思ったのだ。アウスムンドゥル・スヴェインソンのピュアな芸術家の魂は、ただただ自らの目の前にある石を、あるべき姿へと彫ったのではないか。周囲の声や評価などは気にせずに、ただ自分と石と一対一の対話の中で彫り続けたのではないか、と。厭、むしろそうでもなれけばこんなものは作れなかっただろう。

 

ピュリファイ。ピュリファイ。ピュリファイ。

 

ねえ、魂でつくられているものは、きちんと他の魂に響くんだねえ。

恋人に向かって放った言葉は結局これだった。

 

後日調べてみると、どうやら活動初期のアウスムンドゥル・スヴェインソンはかなり厳しい批判を受けていたらしいことが分かった。それが時間の経過と共に、一連の作品郡が20世紀のアイスランドを物語る伝統や社会や自然を表象するものとして評価されるに至ったようだ。あなたは、人のことを気にしない、アイスランド人の中のアイスランド人でしたか。

そうは言われても、私の想像力はこの人に対して勝手な物語をあれこれ考え始める。それでもやっぱり評価されないのは辛かったはずではないか。これでいいのかとその手を止めたこともあったのではないか。ふとしたときに目の前の作品に対して破壊衝動は起こらなかったのか。それでも、迷いながらも、石と自分の声に沿って素直に彫り続けたのではないか。こうも思いを巡らせてしまうのは、確かにこの場に美術館として彼の痕跡が残っているからである。

 

いつかとあるテレビ番組で日本の書道家の篠田桃紅さんが「人間の迷いの形が文化だ」と言っていたのを思い出す。

 

前進せよ成長せよという社会の中で、人のエゴが間違ってするりと入ってきてしまいがちな「芸術」をしながら、魂が宿るような作品をつくることは難しい。ただ、機会があるのなら、自分の中でどこか呼ばれている感覚があるのなら、出来るだけ自分を純粋な状態にして芸術をしていきたいと願う。自分の魂を乗せた作品が作れればいいと思う。魂で芸術をし、迷いながら文化を為す。そんな風に生きていきたい。

 

目の前の現実に目を眩ませられるようなことがあっても、過去の本物の芸術家たちは魂を残してこちらに囁いているのだ。ここにいるよ、こっちだよと。ピュリファイなんだよ、と。「こっち」の全容は未だにはっきりしないが、そういうときは、そうねピュリファイねと囁き返せばいいのだ。少なくともアイスランドにいる限りは、風が強くてそんな箴言とも戯言ともいえないことを呟いても誰も聞き取れないだろうし、いずれにせよアイスランド人はこちらのことなんてお構いなしに歩き続けているのだから。

 

アウスムンドゥル・スヴェインソンの作品

カール・ミレスの作品