まだまだ治らない

ブリュッセルに快晴の日々が続いている。驚きだ。

最近は、オランダ語を学び始めた。新しい言語を学ぶのは、最初の方は頭がくらくらするような時間が続くのだけど、少し慣れると、なんて面白いんだろう、という感覚に変わってくる。

特にブリュッセルは、常にフランス語とオランダ語の二表記が基本なので(映画の字幕もふたつ、通りの名前もふたつ、工事現場の立て看板も公共交通機関のアナウンスもに言語)、今までよく分からなかったものが、意味をもって立ち上がってくる。

これってこういう意味だったんだ!と分かると、その言葉やものが、途端にずしんと存在感を持ち始める。晴れなのもあって、街が輝いていて、何だか恋をしている時のような感覚が、最近は街を歩いていて常にある。

 

そんな日常のせいか、ここ最近私の中にまた懲りずに永遠のテーマが反芻している。それは「上手い演技ってなんだ」ということ。(本当に、またか、って感じ)

 

長いながい学生生活を終えて、自分が演技をするよりも、観劇したり、映画を観る中で人が演技をしているのを見る時間の方が長い中で、俳優をみて「あーあ」と思うことがままある。

 

でも、いったい何に「あーあ」なのだろうか。

大抵「あーあ」と思うときは、「下手だな」とか「わざとらしいな」とか「相手役との関係性が見えない」とか同時に思っている。

ただ、もっともっと具体的に、どうその俳優が演じればいいか、と言われると、さて私が「指導」出来るのかとそこまで自信はない。もちろん、具体的に、相手役との関係性をどう捉えるのか、声をどこに向けて発するのか(自分か、ものか、相手か、観客か、世界か)など、そういうことはいくらでも調整しようがあるけれど、それが「その俳優がどう演じればいい」という根幹の問題に触れる指導かというと、そうでもないように思う。

 

 

長い長い学生生活だったけれど、一体、私が受けてきた俳優教育というものは、それ自体何を目指していたのだろうか。

私は俳優として、上手い方ではないと思う。ただ、あるものに自分が深く結びついているから、舞台の上に立つことができる。その繋がっている感覚、それを信じている力は、自分にとってあまりに自然で、きっとこれはそう簡単になくなることはない。ただ、一方で、やはり「上手く」ないな、と思うのは、例えば活舌が悪かったり、無駄な動きが多かったりすることにあるのだけど、これを補えば私は「上手く」なるのだろうか、とも考えたりもする。(最近自分が喋っている録音を聴いて「演劇」という言葉さえちゃんと言えてなくて正直驚いた。nが足りないのかな。)

 

自分のことを降り返っても、私が長く受けてきた俳優教育において求められていた俳優の姿って一体何だったのだろう。

俳優教育を通ってきた俳優たちが多いヨーロッパの演劇での「上手い」って何だろう。

国によっても、その尺度は大分異なっていたりするけれど、それでも普遍的に「上手い」と思われる人、俳優というのは存在する。それってつまり、そういう人は「上手い俳優はこういうもの」という人々の意識を超えてくるということなのか…

でも、ここまでくると「上手い演技」という枠を外れて「いい演技」というものに近づいてくる気がする。これはあくまで感覚だが、「上手い演技」と「いい演技」は全然別物な気がするのだ。

 

「いい演技」か「上手い演技」か、それこそ上手くそれが語れないのに、相変わらず「あーあ」は、やっぱり思い続ける。

 

ただ、それは俳優のせいだけではなく演出側の問題でもあるのだろう。
だとすると「あーあ」が起こるとき、演出と俳優の間にどのようなズレが起こっているのだろう。逆に言えば、「これは」と思う演技が生まれる瞬間、俳優と演出の間には一体何が起こっているのか。

 

うまくいくとき、そこに生まれる何か。それは、マグマのようなものの気もするし、同時に、花畑を飛んでいるちょうちょのようなものの気もする。

深い海に沈んでいる気がすると同時に、光に包まれているような気にもなる。

その間などではなく、どちらもある、そんな感じだ。

 

上手いって何だろう。いいって何だろう。感動する演技って何だろう。

この問いに憑りつかれたかのように生きている。まだまだこのやまいからは治らない。

 

良い作品かどうか、より、やっぱりまだそこが気になってしまう私は、演出家としてはまだまだ未熟だなと途方にくれます。