大分昔に、大きな声ではっきりとおなかから声を出すと日本語の演技では何かが起こる、ということを大学でお世話になっていた先生に言われた、ということを書いたのだけど、
先日、演出作品の稽古中に俳優たちを見ていたら思ったことがあった。
俳優の声がお腹から出ていると(複式呼吸とかではなく)、そこから俳優の演技における誠実さのようなものが出てくるということ。
演技の誠実さ、俳優の誠実さ。
この「誠実さ」は、結構耳にすることの多いキーワードの一つ。
でも、それって一体どんなものなのだろう、と思っていた。
INSASの卒論で扱った「俳優の存在感」と同様の言葉だ。(みんな、存在感っていうけど、一体何のことを話しているのかさっぱり分からないうえに、存在感がない、と言われることほど悲しいことはないのに(だって、確かに舞台上に存在はしていたわけだから)、そんな曖昧な言葉を使っていて良いのか?という一種の危機感がこの卒論の出発点だった)
「誠実さ」というのは、まあ、あってないようなものなのかもしれない。
ただ、稽古している俳優たちをみて思ったのだ。
ああ、お腹から声が来ていないから、言っていることが信じられないんだ、と。
考えてみれば、不思議なものである。
セリフは、セリフでしかないのに。逆に言えば、セリフはみんなセリフなのに。
何で、そこで「信じられる」とか「信じられない」とか、が出てきてしまうのだろう。
上手い、とか、上手くない、とかが「信じられる」か否かで決まるからなんだろうか。
でも、「信じる」って何なんだろう。
これは、至極私的な見解なのかもしれないけれど、
きっと「誠実さ」と繋がりがあるのかもしれない。
誠実なひとって、信じられませんか。
だとすると、声が、お腹から出てきているとき、
私は、この俳優が、ああ、本当のことを言っているな、と思えるのかもしれない。
それは、決してテクニック的なものだけではなく。
(テクニック的な部分もあると思うのだが、これはもう少し複雑な話)