先週の木曜、金曜とボルドーに行って稽古をしてきた。
そもそも私が今受けようとしている演劇学校を志望した理由は、その学校の元ディレクターに勧められたから。コンセルヴァトワールの卒業試験の際(詳細は→ジュリエットを終えた先に。 - 近藤瑞季の足踏みの覚え書。)に、審査員の中に彼がいて、講評の際に、その彼が2010年までにディレクターを務めていたその学校を勧められたという訳だ。
その試験後も何度かメールのやり取りはしていて、フランスに戻る際にも私が何をどう思って日本で過ごしてきたか、なぜフランスに戻ろうと決めたかを綴ったメールを送ったら、
「きみの辿ってきた道は正しい。離れてみることで、よりよく戻ってくることができるから。」
という寛容な言葉をくれたのだ。(どんなにこの言葉に救われたか)
その寛容な演出家が、稽古をしよう、と言ってくれて、彼が今講師として授業をしているボルドーまで行ってきた、という次第である。
ボルドーには、2年前に、今まさに彼が講師を務めている国立演劇学校の受験をしたときに訪れた。相変わらず、フランスの南に位置するこの街は美しく、しかし暑さとは関係なく、人の頭をぼんやりとさせる妙な雰囲気が漂っている。あの時は、この街の美しさと学校の建物の美しさに「絶対にここに行く!」と心をときめかせていたが、結局かなわず不合格という結果に終わった。(詳細は→一寸先は闇、の法則 - 近藤瑞季の足踏みの覚え書。)
奇しくも今回の稽古はこの学校の施設内で。
悔しさを中心に渦巻く複雑な気持ちで学校前のテラスで彼と待ち合わせる。
「ボルドーの試験受けたの?」
「うん、でも落ちたの。」
「さっき、ディレクターと話したよ。稽古場を使っていいかって。そしたら、日本人の子?もしかしてあの子?って話になって…」
実はこの学校に関しては、他の学校よりも悔しい思いをしていて、というのは、この学校のディレクターに講評を求めた際に「本当は第二次試験に呼びたかった」と言われたからなのだ。ただ、その前のプロモーションに韓国人の女の子が既にいて、彼女は言葉の関係で随分苦労したらしい。それがあって君を選べなかった、と言われたのだ。
その時は、悔しくて悔しくて、珍しく数日間は引きずったけれども、こうやって2年たった今も私のことを覚えてくれているのだ。さすがに、嬉しかった。
そりゃあ、受かっていたらそれに越したことはないけれども、こういうこともある。
こういうことも、あるのだ。
久しぶりの稽古は、久しぶりのお芝居は、
それはもう、どうしようもなく幸せだった。
演技をしていると、世界は違って見える。呼吸が変わるから当たり前だ。
ただ、自分の内側に起こるものが、波として感じられるようになった。
この波に誠実であること。
何かしようとしなくていい。ただ、自らの波を感じること。何かしようとする瞬間に、それは「演劇的」な嘘になる。
彼に訊いた。
お芝居は人間であれば誰でも出来るではないか。では、何故、俳優は存在するのか?と。
「ハープには47絃ある。一般社会では、人間は真ん中の十数本を使って生きているだけ。だけど、俳優はこの47本すべてを使わなければいけない。舞台上で俳優は、人類を前にして、47本の経験をする。それをみせる。それが、俳優の仕事。」
ああ、そうか、と思った。
やっぱり論理的には、人間であればだれでもお芝居は出来る。
でも、俳優はそのハープを絃をすべて、しかも「正しく」扱う必要がある。
この「正しく」というのが重要だと思う。
それはなにも、ただ一つの正しい悲しみや喜びがあって、それを表現しなければいけないと言っているのではない。
ただ、その悲しみやら喜びやらに、例えば「見てもらいたい」「褒めてもらいたい」なんていうのが入っていると、やっぱり音は濁る気がするのだ。
ひたすらに悲しみに、
ひたすらに喜びに、
ただひたすらにひとつひとつの感情に身を捧げること。
「正しさ」は、どう俳優がその感情に向き合うか、そしてそれを見ている人にそのまま手渡せるか、ということにあるような気がする。
俳優がそれぞれの内側のいちばんやわらかい部分、とても個人的な部分を、外側に寛容に広げていくこと。
悲しみだったら悲しみの、喜びだったら喜びの、それぞれのハープの絃があって、俳優が演じるということは、その絃に触れることで、人類の喜びや悲しみに触れていくということなのだ。なんて尊くも、危険な行為なのだろうと思う。
しかし、それが俳優というハープの演奏方法である気がするのだ。
俳優がきちんとテクストに書かれていることに向き合い、自分と向き合い、それを誰かに手渡さしていれば、きちんと世界は出来上がる。
だけどそれには、やっぱりテクニックも必要だし、経験も必要。
演劇は学ぶものである。生まれつきできるものでは、ないのだ。
どんな名演奏家も、それはもうひたすらに練習しているではないか。生まれつきの才能だけで出来ると思ったら、それは傲慢なのだ。
そんなことも、ようやく分かってきた気がする。
まだ手の届かないことが沢山ある。いや、恐らく一生手は届かないだろう。
だけれども、手を伸ばすこと、それは出来るのではないか。
それだけは、決して怠ってはいけないのではないだろうか。
そう感じて、やはり半年時間をおいても、演技をすることが好きなのだ、と思う。
それはもう、涙が出る程、好きなのだ。