氷の国の詩人との邂逅
夏は気候変動の影響で多くの国では日中は下手に動けない季節になってしまったのを横目に、現在滞在中のアイスランドでは、最高でも15度程度の気温が続いている。個人的に暑さは苦手なので、この低気温は有難くはあるが、その代わり太陽を拝めることも少なく、ここ暫くは灰色の雲が空を覆っている日々が続いており、それにはどこか物足りなさを感じている。貪欲だなあ、と思いながらも、驚くくらい穏やかなこの国で今夏も過ごしている。どうやらこの国でも以前は夏になれば、それらしい気候になったそうだが、気候変動に伴い、夏でも所謂天気が悪いのが標準になってしまったそうだ。このことをどうように科学的に説明出来るのかを私は分かっていないし、非常に無責任な発言だとは思うのだが、他の国と逆行しているのが面白い。
逆行していると言えば、この国の街の発展の仕方もそうである。というのも、例えば大きな黄色いMマークを掲げる某ファストフード店など、今や世界中どこにでもあるような大型資本の企業が進出をしては、結局売り上げを伸ばせずに、かなり早い段階で撤退してしまうというのが、この国のお決まりの流れだという。世界中を旅してきた知人が、アイスランドは他のヨーロッパの国と比べてもなかなかユニークな雰囲気がある、と言っていたのは、そういうことに理由があるのではないか。
こういう逆行現象?も、私にとってもっと身近なことだったら、矜持を持って誰かに話していたかもしれないが、普段はベルギーに住んで、まとまって時間が出来た時にだけパートナーが住むこの土地に滞在しているだけなので、興味深く、遠くから眺めるだけに終始している。面白いとは思うけど、その距離にどこか寂寥感も感じる。自分の中に以前からあった虚とも言えない程の、でも確かにあった小さな穴ぼこを、はっきりと寂しいという言葉で表現できるようになってきたのは、つい最近のことである。
それが、昨日、そう、つい昨日のこと、ある女性との出会いで変わってしまった、といったらあまりに劇的だろうか。
正確に言えば、出会うというような出会い方はしておらず、彼女の朗読する姿に偶々立ち会っただけなのではあるが、このように言葉にしてみて思うのは、何か、或いは誰かと出会う、出会ってしまった、という感覚は、とかくこのような一方的なものが多いのではないか、ということである。
私が一方的に出会ってしまった女性、クリスティン・オマールドッティルは、アイスランドを代表する小説家・劇作家・詩人である。昨日は、レイキャビク中心街にあるフィッシャースンドという香水専門店で何人かの詩人による詩の朗読会があった。この店は、アイスランドの有名音楽グループ・シガーロスのヴォーカル・ヨンシの妹リリアが経営しており、そこで売られている香水は、ヨンシが書いた詩をインスピレーション源に、アイスランドにある香草の香りを組み合わせて作られたものである。詩を書いたり読んだりすることが他の国と比べても日常的であるこの国で昨日開かれた小さな朗読会は、その会場に隙間がなくなるほどの盛況ぶりだった。
匂いと記憶。それに付随するか、牽引されるかしてやってくるものとして、主催者によってごく自然に発される「詩」という言葉。香水がこれでもかという程に散布された、まあ、言ってしまえば色々な意味で「クサい」空間で、幾人かの詩人が代わる代わる、自身の作品を朗読する。やもすれば、ポエムとも冷やかされてしまいがちなこの文学形式は、昨日その空間で、こうして次々と、疑問に附されることもなく朗誦された。この土地に対する距離がもう少し近かったり、この国の言葉が分かれば、受け取るものも違うのだろうか…そんなことを思っていると、最後の方になって、ひとりの女性がむくりと立ち上がる。レインボーカラーが肩甲骨周りにだけ入っていて残りはピンク色のセーターを着ている最前列に座っていた女性である。背後から見ている分には、本人よりも、むしろその派手なセーターの腰の辺りに、どこで付けてきたか分からない落ち葉がくっ付いていることの方が気になっていたその女性は、この会で朗読する詩人のひとりだった。立ち上がってみると、アイスランド人らしく大柄で、頭頂部には、一本一本が信じられない程の細さ故にボリュームが出ないのよと白人女性が嘆く、しかし量質共に髪質剛健な私からすると羨ましくて堪らないその見事な髪(しかも銀髪…!)が、形よく収まっており、とにかくそちらが目を惹いた。一瞬にして、彼女が纏っている空気がその場の空気を染めていく。アイスランド語でぼそぼそと言っているのは、おそらく今から読む詩の紹介だろう。何故か自分の腕時計を見て、時間を確認している。そういう何でもない仕草に強烈に惹かれた。ずっと見ていてもいいと思った。そして、彼女は手元に抱える大きな本をぱらぱらと捲り、眼鏡をはずして、いきなり
I wrote it in New York. It's a song. と私の理解する言語で言ったのだ。
I wrote it in New Yorkと It's a songの間が、完璧だった。この2行を言うのに最も適した間合いで、厭、これ以外のリズムでこの2行は言うべきではないのだ、と、こちらを妙に納得させてしまうような、そんな完璧さだった。彼女が朗誦したアイスランド語で書かれたその詩は、意味としては理解は出来なかったが、それでも、きちんと詩として書かれたことが分かった。心地よいリズム。繰り返し踏まれる韻。これは、適当に改行された短い散文ではなく、確かに韻文だ。そして、その言葉を口にする時に動く彼女の体。振付けされたわけではない、中心から動く、その体。そこから発される言葉、そうして発される言葉。詩も戯曲も、声に出して発話されるために書かれたものだと思うのだが、彼女の朗読を聞きながらそのことを久しぶりに思い出した。
詩を理解するうえで、その意味を理解するのは大切だが、それは理解するに値する作品に限ってのことだ。そしてその価値は、そこに込められた意味によって決められるものではないように思う。作者がどのように言葉に向き合っているか、自分自身に向き合っているか、そして表現方法を通して世界に向き合っているか。そちらの方が、私にはよっぽど意味のあることに思える。そういう人から出てくる表現には、意味は自ずと付随してくるものではないだろうか。逆に言えば、表現者としてその境地に辿り着くのは非常に難しいということかもしれない。というのも、先ほど挙げたような「どれだけ向き合っているか」というある種の人間臭さは、人間であれば、誰でも持っているものであり、それ故に書くことも、歌うことも、演技することも、基本的には人間なら誰しも出来るからである。そういう、全く意図せずに人間らしさが表出した表現は、瞬間的には感動的なものになるかもしれない。しかし、そういう表現と、人生をかけて何かを表現すると決めた人間、つまり、「その道で上手くなる」と決めた人間がこの人間臭さをテクニックでもファッションとしてでもなく掲げて出来た表現は、似て非なるものだと私は思う。道を究めようとすれば、技巧的に優れているだけになるときもあるだろう。技術とは何なのか分からなくなることもあるだろう。それを使って何を自分は表現するのかが分からなくなることもあるだろう。そして、ある程度の年月続けていたら「それらしく」振舞うことも可能だろう。でも、それらを乗り越えて表現することを追求していったとき、その人から表出した何かは、それを受け取る側の意図も経験も知性をも超えた先で、その者を揺り動かす力を持つのではないだろうか。そこには天晴とするような純粋さがあるのではないだろうか。
鈍色の鋼を高温で熱し続けていくとある時透明になるように。それを叩き続けていくと、美しくしなやかで切れ味の鋭い刃が出来るように。そういう時間のかけ方と、心血の注ぎ方が、真の表現を作るに違いない。そんな確信を得た。
こうしてクリスティン・オマールドッティルとの一方的な出会いは、私とアイスランドの間にあった距離を一瞬のうちに縮めた。私にとって、自分の演劇表現を追い求めていくことは、世界との距離を縮めていくことなのだと思う。逆に言えば、この距離こそが不可欠要素なのである。それが、例えどんなにこちらに茫然とさせたり、孤独感を感じさせるものだとしても、短縮可能性がある限り絶望する必要はない。その距離に向かって手足を伸ばし続けることをやめなければ、こうして、それこそ天からの恵みのように、ふと、私の手元に入ってくることがある。
そう、この手足を伸ばし続けるのだ。自分の限界を超えて。その過程には、体の柔軟性には筋肉だけでなく関節の可動域も関係してくるんだ、なんて発見を楽しむ自分もいる。それでいい。それでいいのだ。
そのようにあろうとすること。しかし、それら全て忘れて、ただその場にあること。これがきっと存在感だ。それは、天の恵み、とか何とか俗っぽい幸運で得られるような、そんな容易なものではない。あってたまるか。
