夏の終わりの女。

日本でまだ学生だった時代に、何人かの前で、泣きながら「人がすごく好きだけれど、近づくのは怖い」と言いながら泣いたことがある。

それに対して、その人たちが鼻で笑いながら「お前気持ち悪いな」と返答したことを、覚えている。覚えているというか、思い出した。未だに、事あるごとに思い出す瞬間である。

 

それは、その人たちが、父権社会の中で自分の感情を表に出すことはよくないことである、と教育されてきた男性と言われるカテゴリーに属する人物だったからなのか。

私が場をわきまえずに、自分の奥底にある(少なくとも言った時はそう思っていた)心情を吐露したのがいけなかったのか。

本当に気持ち悪いのか。気持ち悪いとは何か。

 

自分の心の底にある、どろどろしたものを、外に出すこと、は一体どの程度許されているのだろうか。

社会が滞りなく進むには、そういうものは、なるべくなかったものとしていくべきなのか。

そういうものを表現するために、芸術のようなものがあるわけだけれど。

芸術さえも、歴史の中で作り上げられてきたマッチョな精神によって支えられている。

崩そう崩そう、としているけれど、それまで作り上げてきた芸術作品をどうしても「美しい」と感じてしまう自分と戦いながら、新しい何かを作り上げようとしている。

どうして、右翼化していく社会はよくて、心の中にある悲しみを表現しようとする個人は排除されていくのか。

大人になるとは、成熟するとは、この社会に順応していくことなのか。

折り合いをつけるということなのか。

しかし、この社会そのものが、そもそも大いに間違っていたなら、そこに折り合いをつけていこうとするとき、人は自分の心を少しずつ殺していることにはならないだろうか。

それでも、私が肉体をもって生まれてきた世界はこれで、それとぶつかり合いながら生きていかねばならないのなら。

それでも、霞を食べてはいきていけないから。

だから、やはり、自分の心の奥底を隠しながら、生きていくしかないのか。

 

自分の頭を通りすぎるすべての言葉を外に出すという意味においてではなく、正直にいることは、どれほど重要なことなのだろう。

それは、社会に対する抵抗だろうか?

それでは、その人が社会に傷つけられながら生きていかねばならないのか。

数人の、わかってくれる人たちに囲まれながら。

それでも、その小さな輪に染まりすぎることを避けながら。

ちょうどいいバランスを見つけながら。

女であるというだけで、対等に見てもらえない現実をかみしめながら。

選んだわけではない容姿を抱えながら。

髪を長くしたら、女らしすぎるからだと言われ、髪を短くしても、新たな女性像だと言われ。

どんな格好をしていても、どうせ性被害にあう。

だったら、思いっきりスカートをはいて、デコルテのあいた服をきていると、「ほらね」と言われる。

自分の感情を言っても、考えを述べても、「いや、違う。君はこう思っているに違いない」と言われる。

一度、「私は怒るというか、すぐに悲しみに変わる」と言ったら、これも年上の男性だったが、「それはすごくナルシスティックだ」と言われたことが、ずっと心に残っている。

私の感情に、どうして他者が名づける権利があるのだ。

しかし、少なくともあの当時は、「年上」の「男性」にそういわれると、そうなのかもしれない、と思ってしまった。

そういうことが日々あると、頭が混乱し、それは自分が馬鹿だからだと思い、傷つき、自分の考えをきちんと持たねばと思い、境界線を引かねばと自分を奮い立たせ、カウンセリングにいく。

自分を知る。自分の弱いところを突き付けられる。どうにか直していこうと努力する。

その間にも、私を傷つけた奴らは、ビール片手に、馬鹿笑いをしている。今までもそうだったろうし、今もそうだろう。

あるいは、こちらのことなど、なかったかのように、この社会でのうのうと生きている。

ずっと、ずっと、その繰り返しだ。

こちらは少しずつ強くなっていくしかない。

そして、強くなったじゃない、それでいいんだよ、と言われても、結局古い宗教の価値観に巻き取られているだけのようにも感じる。その宗教だって、どれだけ父権主義的なものによって支えられてきたか。

気が遠くなる。

 

そうして結局、社会ばっかり攻撃してるんじゃねーよ、自分の半径3メートルをどうにかしろ、と言われる。

そういう言葉は、優しい表情をしてこちらを諭してくる。

天使のようなほほ笑みと道徳的に正しそうな雰囲気で頭を撫でられる。

 

諭される。

未熟だと言われる。

そうか、これが未熟ということか、と反省する。

変われといわれる。

変わろうと思う。

そうして、結局、ぐるぐるぐるぐる同じところを回る。

そうやって、大人という年齢になってみてわかることがある。

 

批判された自分の数々の発言や態度は、未熟さなどではなかった、ということだ。

それは、女であるから向けられる言葉であることを、ある時、はっきりと思い知る。

はっきり意見を言うこと。感情を伝えること。感情を素直に表現すること。堂々としていること。相手の話をきけるから、相手の感情を尊重するから、自分の話を繰り出すのに時間がかかること。

 

そうして、怒りが、そう、まさに怒りが、腹の底から怒りが湧き上がる。

すると、言えるようになる。

ナルシストはお前だよ、ばーか、と。

ああ、これが怒りですか。

というか、ここまで体に溜まってたら、これは憎悪である。

 

今までの自分の存在を否定してきた言葉の多くが、私が女だから向けられてきた言葉であることに気づく。

何度も何度も、ハンマーで頭を殴られて、それでも立ち上がってきた。

それを、勇敢だね。そうやってこういう素敵な人になったんだね、と後から言われても、はあ、そうですか、でも、あのハンマーで私を殴った人たちはどうしてくれるんですか?と、いう怒りが、悔しさが、とまらない。

この傷を。

この涙を。

この時間を。

一体どうしてくれるというのだ。

それでも戦い続けなければいけないのか。

それでも声をあげ続けなければいけないのか。

 

夏の終わりを感じる空気に晒され、過去を振り返ってしまう今、そんなことを考えている。