À l'ouestが始まる。

学校も卒業して、ようやくベルギーでのプロとしての演劇活動が始まった。

来年の3月にベルギーの二つの公立劇場から依頼され、ジュディット・シズレ(Judith Ciselet)という同世代のベルギー人女性劇作家の作品を演出する。

 

10月終わりにようやくメンバー全員が決まり(というのも、劇場側から依頼されたのが8月頭で、正式に決まったのは9月の頭。それで、公演が2023年の3月。普通こんなスピードで進行するのはあり得ないらしい)、ドラマツルギーを練っていったり、主に舞台美術家たちと会議を重ねていった11月。来週には一週間、俳優とのレジデンスがある。

 

前から疑問に思っていたれど、一昨日あたりからようやく言葉になって浮上してきたことがある。

日本人の私が、ベルギー人の劇作家の言葉で書かれたテクストを、ヨーロッパ人の俳優と共に、作品として立ち上げていくとはどういうことなのか。

私は、こちらで生まれた訳ではないけれど、22歳で渡仏し、フランスで俳優教育を受け、ベルギーで演出家教育を受けた。

日本人であること。それを、わたしはここで「その文化的・社会的コンテクストを本来共有しなかったはずのもの」の代名詞として使っている。

「本来」というのは、私が日本で生まれた人間で、そんな人間がこうして今、一見縁もゆかりもない国にいるのは、テクノロジーの発達と、生まれ持った家庭環境等など複数の要素のおかげで海を越えたから。フランス語圏の演劇文化に憧れたり、反発をもったりしながら、それなりに、そこの演劇を身に着けて(多分)、この度、ベルギーの公立劇場で、ベルギーの税金を使って、ベルギー人の書いたテクストを演出する。

 

所謂対話形式のテクストではなく、幾人もの人のモノローグの繋がりのようにも見えるこのテクスト。何について書いてあるかというと、「このままではいけない、ここにいてはいけないと思っている人たちが、どうにか動こうとするけれど、動けないでいる。或いは、まさにその第一歩を踏み出そうとしている話」とでも言えるだろうか。抽出したらこんな感じだけど、正直言えば、そんなには定かではない。作者のジュディット自身も「何が書いてあるか、人に説明するのは結構難しい」と言う程である。

 

テクストには、北海(la mer du Nord。フランス語発音すると綺麗だ。メール デュ ノール)が繰り返し登場する。

古典的な意味での登場人物はいない。出演する予定の俳優が演じるのは、私の世代の若者(ヤングアダルト)。

 

 

ベルギーの北海は、ブリュッセルから1時間半くらい国鉄に乗ればいける距離で、一人ふらふらと散歩にいくこともある。地中海の真っ青で穏やかな海とは真逆で、海水は砂の混じった灰色をしていて、潮の満ち引きがある。この海を「綺麗じゃない」と言って毛嫌いする人もいる(むしろそういう人の方が多い)けれど、私はこの海が好きだ。地平線と繋がってどこまでの広がるその様相に反して、物理的空間よりも、時空間の広がりを感じさせる海だと思う。寄せてはかえす波をみていると、嬉しくて、悲しくて、切なくて、喜んで、こうやって人生は続いていくんだと思わされる。私はここにいるんだ、と感じさせられつつも、どこか遠くに私を運んでいく、そんな心地よい眩暈を引き起こす海だな、と思う。

 

ベルギーに生まれ育ってないし、海の近くで育ったわけでもないので、何か親近感を感じる理由は一つもないのだが、何だかものすごくノスタルジーを感じる。

それに、生まれ育った国が違ければ、アジア人と西欧人(しかも白人)で大分出自は違うけど、ジュディットと同じ世代に属するので、彼女の感じる閉塞感のようなものに共感をしたりもする。

 

 

こうして挙げてみれば、確かに似ているところも多いけど、

それを人間として共通して持っているものとして扱うことではなく、この果てしなく違うことがどうしても気になる。

この圧倒的な他者を目の前にして、私は、演出家として、どのような場所に立っているのか、またどこに立ちうるのか。

この誰かの言葉を、他者である私がどう、他者である俳優たちに「言わせる」ことなく、演出しうるのか。

テクストを演出するとは、いったい何を意味するのか。

俳優の演技指導とは、いったい何を意味するのか。

 

フィクションという形をとった時に、その言葉を発する声の本来の主はどこに位置するのか。また、その言葉を実際に舞台上で発する俳優の声は、どこから出るのか、出るべきなのか。果たしてその答えはあるのか。

 

昨今のベルギー・フランス語地域の主流は創作だが、今回のプロジェクトは既に書かれたテクストがある。つまり、それは当事者性といったところでクリエーションが出来ないということである。

誰かの言葉を自分のものとしていうことが可能なのだろうか。

あるいは、発語するために、上演するために書かれた言葉を、俳優が自分の言葉として語ることが可能なのだろうか。

 

そして、それを彼らとこれ程までに違う私が演出するということは、どういうことなのか。どんな特別な可能性があるのだろうか。あるとしたら、どうやって掘っていけばいいのだろうか。精神的な過程のみならず、実際の稽古場で。どんなハプニングが可能なのだろうか。

 

今のところは、こんな疑問ばかり。

現実的な手掛かりが正直あまりなくて、不安といえば不安だけれど。

だけど、たぶん「無」から始めるべきな気がする。

この不安から始めるべきな気がする。