大好きな服が、大好きじゃなくなった。

コロナによってベルギー中、いや世界中の機能が一時停止したので、

私の通うINSASも例に漏れず3月末から完璧にストップした。

私は演出科に所属しているので、書いて提出できる課題などもあったが、演劇というものの特性上、リモートで出来るものばかりではない。外出禁止期間は送られてきた文章を読んだり、ラジオ番組をつくったり。演劇性を他のメディアに探すという作業ばかりしていた。

 

三月末の時点でやっていたセミナーはréécriture(リエクリチュール)といって、大まかに言うと自分で戯曲を一本書いて、誰か別の人がそれを演出する、というものだった。

戯曲を書くこと自体は、10月からコツコツとやってきていて、あと二週間で学内発表というところまできていたので、発表もないまま中断しなければいけないことを知った私たちの失望はかなり大きかった。

 

でも正直言うと、私はこの中止に内心ホッとしていたところがあった。

自分が演出中の作品も、あと一歩というところで次のステップに行けそうだったし、自分が演じる機会もあったのでその点では他の人同様にとても悲しかった。

が、

自分の書いた作品を演出されるのがとても嫌だった。

その時は、そのクラスメイトの演出が気に食わなかったのだと思っていたのだが、

ただ今になって、たぶん誰にやられてもとても嫌だったろうな、と思う。

 

この学校に入ってから、様々な局面でパラダイムシフトをさせられてきたし、しざるおえないような教育を受けてきた。

「退屈」って悪いこと?

「遅刻」って悪いこと?

「頑張る」っていいこと?

「仕事」って、何を指すの?

挙げたらキリがないが、とにかく今までの固定概念を外し、脳内で新たなシナプスを作り出していくという作業を永遠とやってきたわけだ。

 

そんなことがあるたびに、今までの自分の「悪行」を見直してきたし、想定もしていなかったような未知の扉を開けることにある種の感動も覚えてきた。

 

だから、この他者による自分の作品の演出という行為に対しても、

「いや、でも、これで発見できることがあるはず。私の見えていなかった世界が、見えるはず」と何度も何度も言い聞かせてきた。

実際には自分の演出作品と俳優として参加する作品の稽古にほぼ一日の時間を費やしてきたので、私が書いた作品の稽古は一度か二度かしか見ていないけれども、心の中の気がかりは私が書いた作品「Tu t'es fait manger par les poissons.(君は魚に食べられた)」のことばかりだった。

 

言葉を選ばずに言うと、

産み落としたわが子を、他人にめちゃめちゃにされているような感覚だった。

嫌だった。

とても嫌だったのだ。

 

この、嫌、という感覚。

これは、すごい大事なんじゃないか、という気がする。

 

最近私は物事の判断基準を「正しいか正しくないか」においてきた人間だということに気付くことがあった。

人はみな多少なりともそういうところがあるのかもしれないが、私に関していうと「好きか嫌いか」という言葉はあまり人に言ってはいけないと思って生きてきたのだ。

 

社会的に見てそれが正しいか。正しくないか。

それが、私が口に出して言う「これ好き」だったのだ。

 

でも、それって全然違う。

そう思わざるおえないことが最近起きてしまった。

22歳頃から好きで母親と通っているブティックがあった。

売っている服はそれなりに高値だし、質はいいし、モードでかっこいいし、着ていると褒められることが多かった。

先日、そのお店に行って服を試着してみると、何だかしっくりこない。

懇意にしている販売員さんにもその場にいたお客さんにも褒められたのだが、私はどうしてもしっくりこない。別のを試してみる。しっくりこない。おしゃれなのは、頭では分かっているけれど、でもなんか気分が上がらない。もう一着。やっぱり気分が上がらない。

 

こんなことは初めてでかなり戸惑っていた。困惑していた。大好きだったお洋服たちに、日本に帰ることの楽しみだったお洋服たちに、心がときめかなかった。コンナハズジャナイノニ!大袈裟かもしれないが、心の中は大嵐だった。

そんな私を見かねた販売員さんが言う。

 

「瑞季ちゃん、今の瑞季ちゃんは、うちのお店の服の出すエネルギーにはついていってない気がする。いま、きっと全然違うところにいるんだと思う。そういう時に、やっぱり私もうちの服は売れないわ」

 

心からバーッと何かが流れ落ちるような音が身体の中でしたようだった。

それで、思ったのだ。

ああ、私、「自分の好き」に長いこと蓋をしていたな、と。

 

ちょっと今まで背伸びしてたかも。

いい生地。流行の2,3年先を読んでるもの。おしゃれだと人に言われるもの。

そういう外側の要因にずっと決定権を委ねて、自分の「これ最高に気分あがる!」は全然違うところで服を選んできた。

勿論、今までのお洋服で気分が上がらなかったかと言われれば、それは勿論気分上がりまくりだったわけだったし(だって、やっぱりすごい素敵だった)、それも大好きだったのだけれど、やっぱり今の私は、「自分が好きだと自覚した好き」に敏感になってしまったので今までのタイプの服とは違う方向に行きたがっているのだ。

 

大好きなブティックでのカタルシス。

 

「じゃあもう二度とこのブティックに行かないか」というと、それも違う気がする。

他人から「いい」と言われる好きも、自分が「いい」と思う好きも、どっちもあって、そのどちらを選んでもいいのではないか。

ただ、選択肢が一択の(つまり、他人からのいいね!だけ)だと何処かで行き詰ってしまう。

 

自分の書いた作品を他人に演出されたくなくて悶々としていた私のように。

 

他人が演出してもいい。そういうことがあってもいい。繰り返しになるが、そうすることで自分が見えていない世界を見ることが出来る。他人と一緒に何かをやる。これこそが演劇をすることの醍醐味である。

でも、それと同時に「私が演出したい」という私がいてもいい。

 

このどちらでもいい。

どちらも同程度に価値があって、同程度に価値はない。

どっちでもいいけど、自分は何を選ぶか。

そこなのではないか。

 

 

自分では似合わない、おでこを覆うような前髪は一生作らない、と誓ったいつかの私は今、美容師さんを信頼して切ってもらった今の髪形を鏡でみて思う。

「これもアリかも。ていうか、めちゃくちゃ好きかも」

ボブもありだし、ショートもありだし、前髪ありもありだし、なしもありだし。

自分で決めた好きもあるし、他人に勧められた好きもあるし。

でも、今どれを選ぶかだよね。(今回に関しては、選んでもらったわけだけど)

 

今この瞬間にどうなのか、って。

やっぱり演劇の話になっている。

 

演劇はいろんなことを教えてくれるなぁ。

今見えている世界がすべてじゃないから面白い。

まだ生きていけるな。まだまだ。