演劇をするってどういうこと?

Nathalie Béasseとの数か月に及ぶスタージュの締めくくりとして、ナントにあるThéâtre Universitaireというナント大学にある公共劇場での公演が22日23日にありました。

大学構内の劇場だけど、かなりしっかりしていて、舞台も広い。

久しぶりに学校外での公演で、舞台上に初めて立った時に泣きそうだった。心が震えた。カーテンコールは、圧巻だった。たぶん、この言葉が一番しっくりくる。圧巻。

 

ただ、この圧巻にたどり着くまでの道程は、なだらかではなかった。

沢山の不平の声と、涙と。あと身体の痛みと笑

その中でも、スタージュがある度に、みんながぶつかって乗り越えてきた壁を取り上げたいと思う。

 

それは、ナタリーは演出家である、という事実。

当たり前といえば当たり前なのだけれども、「学校」という場所で演劇をしている私たちにとって、そのことを把握して受け入れるのはかなりの時間と忍耐を要することだった。

 

彼女は教育者ではない。だから、「お気に入り」はあるし、「彼女の世界」があるし、「彼女にとっての普通」があるし、「彼女のリズム」がある。彼女は演出家であって、彼女はただ「演出の仕事」をしているだけなのだから。

だから、俳優である私たちはそれを理解をする必要はないにせよ、

「そういうもんだ」と受け入れてそれに合わせて「俳優の仕事」をしなければならない。

 

それでは俳優の仕事とは何だろう。

それは共に仕事をしていく演出家によって変わっていくだろうし、そもそも俳優によって変わってくるものなのではないだろうかとも思う。

そもそも定義するのは可能なのなのだろうか?

 

今回のスタージュ・公演を通して、演出家との付き合いにおいては、ひたすらに「自我を消していくこと」だなと思った。

「自我を消す」というのは必ずしも「憑依する」という意味でなくて。

このことを表現するにあたっては、フランス語ではêtre disponibleという言葉がしっくりする。

日常生活ではよく「時間があること。予定が空いていること」の意味で使うこの言葉。

これは演劇に限らず精神的なことにも言えて、「いつでも動ける状態にいる」という感じに訳せるだろうか。

そうあるためには、身体はいつでもそこにいて指示された方向に動ける必要があるし、脳みそは出された指示にあまり疑問を感じずに反応できる必要がある。

(いくらかの例外を除いて。例えば私は脱げといわれたら、真っ先に無理だと答えるだろう。必要なら脱ぐかもしれないけれど、私の中の自然な反応として、それはまず「無理」となる。それはもう個人の問題だ。私は俳優である前に一人の人間だ。そうそう、例えば今回初めて舞台上で上半身下着だけになったけど、それは「人間の身体、皮膚をみるため」なので最初こそ抵抗はあったが、まあ、やった)

 

ただ、俳優の仕事は、演出家との間にのみおいて行われるわけではない。

俳優間でのやり取りも重要だ。

たぶん、最後の二週間はこちらの問題のほうが私としては重要だった。

 

例えば私にとって、稽古中に一言も断らずにトイレに行くのは、本当に許しがたい行為である。

しかし、うちの学校ではよくある。

今回の劇場稽古でも、あるシーンを通してみたら、次のシーンを始めるはずの男の子がトイレに行ってたなんていうことがあった。

ちょっと信じられなくて「だめでしょ」と言ったら「どうしても行かなきゃいけなかったんだ。瑞季に言う権利はない」とピシャリと言われてしまった。

 

このほかにもこれに似た案件が一件。

それに関して「それは瑞季が言うことじゃない。ナタリーが言うことだ。瑞季は他の人に自分のルールを押し付けすぎる」と言われた。

 

そうなのだろうか。

公演自体は上手くいったけど、そのことばかりが頭の中でぐるぐるしている。

演出家がそれを良しとすればいいのか?そんな気がするし、そうでもない気がする。

確かに私は時としてあまりに厳格すぎて、人にプレッシャーを与えてしまうことがあるのは直していかなければいけない点だとは思っているけれども。

トイレひとつになんだぐだぐだと、と思わなくもないけれども。

私はどうしても疑問に思う。

俳優の権利はどこまで及ぶのか?

 

俳優間での個人的なアドバイスはあまり好きじゃない。じゃあお前は出来てるのかって話になるからだ。

じゃあ、何があっても隣の俳優は完全放置?自分の演技に集中するだけ?

それもなんだか違う気がする。ていうか、悲しい。

演劇ってみんなでやっていくものだし。

でも、私みたいに、自分の枠を他人に押し付ける(という印象を与えた)のも違う?

誰に嫌われても自分のやり方を通すというのもちょっと違うだろう。

ていうか、私はなんだかんだ小心者だし、まったくもって誰からも嫌われたくない。

 

自分の中のルールと折り合いをつけていくべきなだけなのだろうか。

分からない。

 

ああ、こうやって考えると演劇をするっていうのは、なんて泥臭いのだろう。

他者とどのように付き合っていくかという、日常生活でも出来そうなことを、少し場所を変えて演劇という枠組みでやっているだけではないじゃないか。

それはあながち間違っていないだろうけれども、そうとなると質問は少しかたちを変える。

 

私はどのような人間になりたいのか?どのように他者と生きていきたいのか?

 

あまり上手く生きることができないから演劇をやってるのじゃない、とも思う。

私は無意識のうちにテラピーとしての作用を演劇に求めているのだろう。

 

どのように生きていきたい?

誰と生きていきたい?

どこで生きていきたい?

 

質問は尽きない限り演劇はやめられない。それだけは確かだな。

文章を読み返してみたけど、纏まりがない。

頭の中が纏まっていないからだ。ごめんなさい。

いつも「分からない」で終わるのも、日常生活の私をみているようだ。