Carte blanche 不満足までの軌跡。

10月から稽古を重ねてきた自分の演出プロジェクト・Carte Blanche(カルトブランシュ白紙)プロジェクトが12月1日に公演を終了しました。


Carte Blancheプロジェクトとというのは、通常のセミナー(授業)と異なり、生徒主体となって企画から作品立ち上げまでを行うもので、INSAS内では第三学年と第四学年の俳優科の生徒たちがつくる毎年恒例、かつ在籍中においても一大イベントとして君臨しているもの。

私たち第三学年の演出科の生徒と第四学年の俳優科の生徒の希望者はプロジェクト発起人、残りの生徒は俳優として、二か月かけて15-30分の小作品を作っていく。

何故そこまで時間をかけて、小さい作品を作るのか。

もちろんそこには運営上の理由もあるけれど、なんといってもありとあらゆる方向へと試し、七転八倒することが目的なので、とにかく時間がかかる。時間をかける。非効率の極みで作品をつくるのだ。

 

こんな風に考えると、なんて贅沢な時間なのだろうと思う。

ただ人は渦中にいるとその有難さに気付かないもので、この二か月とにかく私の内面は激動の嵐が吹き荒れていて、贅沢などとは程遠いものであった。

 

問題はいくつかあった。

一つ目は、私が自分が今までやったことのない作り方を試してみたかったこと。

二つ目は、それに付随して、私が演出家の領分を決めていなかったこと。

三つ目は、ひとりの俳優とあり得ない程うまく行かなかったこと。

そして、四つ目は、コロナのせいで稽古が通常の半分以上に減らされてしまったこと。

 

まず、四つ目から。

ベルギーはコロナの感染者数も死亡者数もかなり高くて(ベルギー人の4人に1人が感染しているらしい)、10月後半から二回目のロックダウンをしている。それに伴い大学など高等教育機関は全てオンラインでの授業が義務付けられているのだけれど、学校側が政府と交渉してくれたおかげで、実践的な活動を要する演劇学校であるアンサスは一日に全体の生徒の40パーセントまでの受け入れを許可された。なので、本来ならば毎日あったはずの稽古が週の半分の日程で二時間×四コマへと縮小。

しかも、本来だったら公演には盛大にお客さんを呼べるはずなのに、先生と私たち生徒たちの間での発表、しかも二日間だけ、という形になった。

何やってるんだろうな、と思わなかったといえば嘘になる。

ただ劇場も閉まっている今、演劇が出来るだけでも有難いのだ、と自分たちに言い聞かせて稽古に励んだ。

演劇をやっている人たちなので普段は結構喧しく賑やかなはずの学校なのに、不自然に静かで、不気味だった。

 

問題一つ目と二つ目はセットになって、濁流となって私に流れ込んでくることになった。杉山開知さんという方が「人間が究極的に死にたくなる状況は、現在地が分からないときだ」と言っていた。この二か月で私は人生で経験したことないくらいのスランプに陥り(詳しくはコチラ→迷子の中の迷子。 - KONDO MIZUKI'S BLOG)、新しい方法を試そうとした三週間の末に、四日間くらい現在地が分からないという状態になり、死にたくはならなかったけど、本気で何をどうすればいいか分からなくなっていた。

これが本当に、ナカナカ辛くて笑、気付けばロダンの悩む人のような恰好になって悩んでいたのだ。人間って本気で悩むとああいう恰好になるのかもしれない。

 

実は、今回のプロジェクトではとにかく自分の既に出来ることを徹底的に避けるということを目標としていた。だって、学校にいて、まだまだ守られてるし。未知の力を求めるのって楽しいじゃない、と単純に思うから。

だから自分でテクストを書くことは絶対にしない、と決めていた。自分にとってテクストを書くことと作品を作ることは一対一対応のものではなかったので、解ける結び目はとにかく解いていこうという意図だったのだ。

詳細を書こうとするとあまりに詳細にわたってしまうので割愛するが、結果としてテクストを書くに至ったのだが、今思ってもやっぱりあの一見無駄に見える時間を通ってよかったなと思う。迷走にも程があるって程に迷走してたけれど、その先にシンプルに「そうか、私は書くといいのか」という答えにたどり着いたのだから結果オーライである。

書きたいから書く/どうやら書くといいらしいので書く。

この二つは大きな違いだと個人的に思う。

 

三つ目の、ある俳優との問題。これが今もなお疲弊している原因。

これは「困難」であって「問題」ではない、と自分に言い聞かせてきたのだけれど、終わってほぼ二週間立ってまだ疲れているを鑑みると、きっと私はこのことに憑かれてる。

私は個人的に恨みを持たれたりすることは、悲しいかな、それなりに慣れているのでひとりふたりくらい私を嫌ってくれるのは構わないのだけれど、これが作品や稽古場に影響してくると話は別である。

 

何で俳優と演出家って、権力関係が生まれちゃうんだろうな。

実はこの疑問がもとで、今までとは違う在り方で演出家というポジションを演じようと思った。今回は、最初に書いた通り私があまりにフワフワした演出の領分の決め方をしていたので上手くはいかなかったけれど(失敗ではない。学んだという意味において)、この点に関しては本気でどうにかならないかと思っている。

今思い返すと、大本の原因は彼女が私に対して権力関係を求めていたというところにある気がする。

私が欲しいのは、指示通りに動く俳優ではなくて、私の指示と俳優のイマジネーションで動いてくれる俳優なのだ。

そうした時に、その場にいる誰もの予想をはるかに超える時空間がつくりだされる。

ここまでは、きっと彼女も私と同意だと思う。

違いを生み出したのは、それよりももっと前の段階。それぞれの内面でどういう姿勢・態度で相手に臨んでいたかという点。

 

私にとっては息が詰まるのだ。

演出家と俳優が四つの目のうちに互いに対する絶対的な信頼のもと作品をつくるのは。

別に、相手に対して警戒心を抱けとかそういうことを言っているのではない。

そうではなくて、もっと別の何かに身を預けるようなそんな余裕があってもいいのではないか、ということだ。自分なんて代物、いくら消そうと思ってもどこかに残り香があるのだから、開いて開いて、自分でも演出家でもない何かに力点をおいてもいいのではないか。

そうしてできた隙間には風が通る。

その時、その風に乗ってここではないどこかにみんなで行けるのではないか。

 

とにかく苦しかった。

個人的な恨みはもってくれても構わないから、作品に対しては力を注いでくれろ。

自分の力を全然発揮できなかったから、超不完全燃焼。超不満足。

人間って、失敗しても何しても、自分の持てる限りの力を使ったときにやっぱりどこかで満足するんじゃないかって思う。そうして、次に行けるんだと思う。

残念ながらそうとはいかなかった今回。

どうしようもなく鬱々としていたので、学校で仲のいい先生と電話した。

彼女に言われた。「あったことを全部書きなさい。古代ギリシャで、人間は自らの不運を洗い流すために書くという程だったのだから。書いてお祓いしなさい」

そんなこんなで、ここ一週間で三つくらいまとまった反省文をこのブログ含めて書いている。

ちょっとまだ、不満足。

 

このシーンは好きです。

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