「プロの視点からの意見」とか「視点を定めて的を射る」なんて言葉に憧れていたような高校生だった。
「視点」という言葉が良かった。
音そのものがキリリとしている気がした。
書いてみると、文字の見た目そのものが「視点」という概念を全身でもって表しているようなところも好きだった。
まだこの言葉から距離をとってカックイーなんて思っていた高校生の時は、課題で出される小論文や夏休みの読書感想文を執筆する際にしか用いなかったが、あれから随分時間も経って、今の私はこの言葉を日常生活にフンダンに盛り込むようになった。
日本語でもフランス語でも沢山言う。Point de vue。
そうやって日常の中に溶け込んでいったこの言葉は、気付けばあの頃の輝きを少し失ってしまったように思っていたのだが、それが最近になって新たにこの言葉が新たなキリリを纏っていたことに気付くことがあった。
朝のルーティンでやっているヨガがあるのだが、「視点」はこの一連の流れの中で最後の方にやる動きに出てくる。
(動きひとつひとつの名前を覚えられない私。太陽礼拝というものではないことは分かる。皆がよく言うからその名前は覚えた。)
体の側面を横にして、片手で上半身だけ起こして、もう片手は肩と同じ高さで、体と同じラインに伸ばしていく。
この時に、顔、もっと言えば目をどこに置くか、という問題がある。
視線は手の方向?それとも、前を向く?
私のヨガの先生によると、答えは「その日に因りますよ」とのことだった。
視点をどこにおくか、という問題なのだと。
端的に言うと、ぐらぐらしない、安定する方の視点を選ぶといいらしい。
日によって変わってはくるのだけど、自分のしっくり来る方向に視点を置くと体の軸がスッと通って不安定な姿勢をとっているのに、確かにぐらぐらしない。
このぐらぐらしない視点を選ぶと、私はキリリとした気分になる。
体全体でもって、キリリを表現しているような、そんな感じだ。
どこに視点をおくか。
それだけで物の見方、感じ方が変わってくるから不思議だ。
こんなことを書きながら、「でも視点って本来はそういう意味だよな」という大前提の事実に気付く。
こんな当たり前のことを今更理解するあたり、今までの私は物事を考える時に視点を変えているようで、実は同じ固定点をちょっと場所をずらして変えていたに過ぎないのだろう。
ああ、基本を理解するのって、本当にムズカシイ。
でも視点って、本当に変えられる。
難しくても、可能なのだ。
そういえば、どんより雲に覆われたブリュッセルの街を飛行機で飛び立って、ぐんぐんぐんぐん上っていった先に驚くような快晴が広がっていたのだって、そうだったのだ。
青空に抜け出る瞬間の音はどんなだろう。
あの時は飛行機の唸るエンジン音にかき消されていたが、本当はポンっと抜けるような音でも鳴っていたのではないだろうか?
視線が変わるとはそんな気持ちのいいことだと思う。
キリリ、とするような。