23日の金曜日に在籍している学科の卒業認定試験として、30分の企画公演を行います。
一年間かけてこつこつと準備を進めてきたプロジェクト。
学校では戯曲の中のシーンを用いて稽古などしているけれども、ひとつの役を最初から最後まで通して演じるということがないため、この公演は、30分間、一つとして生きるということに主旨があります。
わたしの役は、ジュリエット。
そう、ロミオとジュリエットの。
去年、一つ上の学年のプロジェクトを観ていて、自分だったら、どうするだろう、ほとんど可能性はないけれども自分がどうしても演じてみたい役はなんだろう、と考えていたときに、この役だ、と思った。
ああ、憧れの役だ、と。
大学受験の準備中、1時間半やったら10分休む、というふうにして猛勉強していたときの、その10分の休憩中に、ジュリエットのセリフを朗読していたことがあった。
美しい人が演じなければいけないと思っていたジュリエット。
情熱的で日本語的ではないセリフ回しでとてもじゃないけど人前で言えないと思っていたシェイクスピアの言葉たち。
フランスで、日本人の私がやったら面白いかも。ただ、単純にそう思った。
でも、この役は国籍なんか超える。
実はつい最近まで、実際の空間で稽古をする機会がなかったため、今までテクストを解読することを中心に進めてきた。
そんな、いかにもおフランスな演劇の仕方。
コンセルヴァトワールに入った時、というかちょっと前まであまり得意でなかったこの方法の重要さに、ここになって初めて気付くことになる。
先週、スタッフとともに二回目の通しをしたときに、私たちのロミオとジュリエットは姿をかえた。
本当に、その表現が一番しっくりくる。
今までやってきたものとまるで違う作品になったのだ。語られるものが違う、というか。
テクスト解読の積み重ねと、空間を身体が把握し始めたのと、きっと要因はいくつかある。
私が演じたジュリエットは、私がそれまで考えていたジュリエットと全く別物になった。
こうなるとは想像もしていなかったのだ。
そして、私自身に関しても、自分がこういう風に演技できるなんて考えてもみなかった。
私は、一回イメージをきめたら、その完成形にむかってまっしぐらに突っ走て行くタイプだけれども、それは上手くいくときもあれば、形だけの中身のないものになってしまうときもある。
中身をなくしてしまう度に紆余曲折して、具体的には苦しんだ末に一度泣くなどして笑、どうにかして役の魂を取り戻していた。(泣くのが大事なのでなくて、泣くほど苦しむことが大事。笑)
今回ジュリエットが教えてくれたのは、今まで私がとってきた手法、つまり役のイメージを最初から決めてしまうことのつまらなさだ
だって、登場人物たちは、私の頭で考えているのよりも、ずっと面白く魅力的で、沢山の可能性に溢れている。
私自身にも、沢山の可能性に溢れているように。どの人にも、どの役にも、私と同じように果てしない発見の余地がある。
どうしてロミオとジュリエットがこんなにも世界中で愛され、読み継がれ、語り継がれ、そして上演され続けているのか。その理由が何となくわかった気がする。
シェイクスピアの言葉の中には、広大な解釈の余地があり、いくら読み解いても終わりがない。
その何千通りもの一つの言葉に含まれた可能性たちのひとつ、或いはいくつかが、観客の心の奥にそっと触れる。
いくつもの方法で。
一番他人には触れられたくない部分に。
そうして触れらる心の奥底には国籍も、容姿の違いも、年齢もない。
あるのは、そういったものをすべて捨象していった先にある、純粋な人間の姿だ。
この作品は、私たちを裸にさせて、ピュアになったところにふわりと触れる力があるのだ。
通しが終わった後に、
私は今まで演じられてきたすべてのジュリエットを背負い、私のジュリエットはそれらすべてのジュリエットに少しずつ宿っている
という感覚があったが、たぶん上に書いたことがその感覚の根本にあるのだろうと思う。
だから、やるべきは、いくつもの解釈を、頭に、身体に入れていくこと。
固定概念を捨てること。
すべての可能性を受け入れること。
何も否定しないこと。
流れる水のように常に変化し続けることを受け入れること。
学校に入って、générosité(寛容)という言葉がよく使われているのに気づくも、「寛容ってどういうこと?」と疑問に思い続けていた。
ここにきて、少しわかる。
この、全てを受け入れるという姿勢。
それをパートナーに、そして観客に、ただただ在るがままに提示すること。
見せびらかすのでなくて。
金曜日、来てくれた全員に同様に、ジュリエットがどのように生き、どのように死んでいったかを伝えたいと思います。
本当に、静かに静かに、そう願います。