先週の水曜日に自分のプロジェクトとして、友人の協力をかりて映像撮影を行った。
3分ほどの短いシーンを2つ。シナリオは私が中心となって執筆した。
先日の映画撮影以来、私はカメラ前の演技に大いに興味を持っていかれてしまった。(詳細はコチラ⇒受験報告と仕事報告。 - 近藤瑞季の足踏みの覚え書。)
映像とは俳優にとって不思議なものである。
ヤン・クーネンの撮影では、何だか飛んでもない褒め言葉を受け取ってしまったわけだけれども、じゃあ私がカメラの前で何をしたか、というか、私がどんな心境で演じていたかを告白すると、それは全然褒められたものではい。
撮影の間、見事に私の名前を間違い続けるヤンに対して私は心の中でひとり悪態をついていた。
「あっちがどーでもいいなら、こっちもやることだけやるわ。」
と、ひとり納得し、出来ることをした。
だから適当なことをしたつもりはまるでないが、熱が入っているわけでは決してない、必死なわけでは決してない、そんな落ち着いたお芝居だった。
しかも、シーンの最中に私の右目めがけて接近してくるカメラに向かって「私のすべてをどうせ撮っちゃうんでしょ。私がこう思っていることも、撮れちゃうんでしょう」と話しかけるといういう、まあなんとも集中力にかけたようなやり取りを、ひとりで行っていたのだ。そんなだから、撮影が終わった際にもらった賛辞には目から鱗だった。
どうやったら、内なる感覚と外側に見えるものが一致するのか。
例えば去年ジュリエットを演じた時に通った感覚。観ている人は、私のジュリエットと同じ感情を通ったのかもしれないという、あの感覚。あれが、どんな時も欲しい。それが私の俳優としての目指すところなのだ。(詳細はこちら⇒ジュリエットを終えた先に。 - 近藤瑞季の足踏みの覚え書。)
「何故、自分で感じているものと、外で見えるものに差があるのだろう?」
昨日撮影を一緒にした女の子に訊いてみると、「あなたが無意識のうちにしていることを、カメラがとらえるのではないかな」と言われた。
その言葉を聞いたときにJ'en ai conscience(意識のうちにある)というフレーズが頭の中を横切った。conscienceはフランス語で「意識」を意味する。
日本語に私が訳すとするなら「分かっている」とするかもしれない。
何かを「分かる」というのは、自分の手のうち、意識のうちにその何かを持ってくるという雰囲気がある。今まで何かを分かった!と思ったとき、未知のものだった外部のものを、自分の領域に引き込む、取り入れる、そういう感覚があったのだ。
だから、何も分かっていない状態、無意識の状態というのが、自分のこととして褒められることに非常に違和感があった。自分の外にある未知が自分の内部として見られている、その違和感。
日本滞在中に森田真生氏の「数学する身体」という書籍を読んだ。
その中で、数学(mathematics)の言葉はギリシア語でμαθηματα(学ばれるべきもの)に由来する、という話があった。森田氏はドイツ人哲学者のハイデッガーを引きながらこう語る。
「μαθηματα が「学ばれるべきもの」という意味だというのはよいとして、そもそも「学ぶ」とはどういうことか。
学びとは、はじめから自分の手元にあるものを掴みとることである、とハイデッガーは言う。同様に、教えることもまた、単に何かを誰かに与えることではない。教えることは、相手がはじめから持っているものを、自分自身で掴みとるように導くことだ。そう彼は論じるのである。」
何かを「分かる」ことも、ここで語られる学ぶことに当てはまるような気がする。
何かを「分かる」ということは、自分の外部にあるものを手のうちに持ってくることではない。自分が内部にもとから持っているものを手のうちに、見えるところに持ってくること、なのだ。
だから、未知なるものは「外部」にあるのではなくて「内部」にある。
少し話はずれるが、フランス語で気に入っている表現にmalgré soiというものがある。意味は「自分の意に反して」といったところだろうか。
カメラがとらえたのは、このmalgré soiな気がしてたまらないのだ。
例えばカメラの前で演技をしながら「うわー、何やってんだろう」と思う。
カメラはこれをとらえるのだろうと思っていた。しかし、カメラがとらえたのは、この「意識」の部分ではなかった。「無意識」をとらえたのかどうかは知らない。しかし、ひとつ確かなのは、私が「意識」している部分の他にカメラがとらえるものがあったということだ。(これを「無意識」の部分と呼ぶのかもしれないけども)
自分の意志に反してそこにあるもの、これが「内部」にある未知のものなのだと思う。それで、これはもしかしたら間違っているかもしれないけれども、
お芝居をする際には、必ずしもハイデッガーが言う意味において「学ぶ」必要はないのではないだろうかと思ったのだ。
これが事前の準備を怠っていいとか、勘に任せて演技をするべきだ、とかそういう意味ではない。
そうではなくて、この未知を必ずしも「分かる」必要はないのではないか、ということだ。
では、俳優は何をすべきなのか?
それは恐らく、その未知を「受け入れる」こと。
自分の内なる部分に、広がる未知を放っておくこと。川の下流のように、口を広くして、ただただ流していくこと。そんな雰囲気ではないだろうか。
それに恐らく、意志や思いといったものに、そこまで重きを置かなくてもいいのかもしれない。
お芝居をするときに、気持ちを作る、なんていうことをよく耳にするけれども、その「気持ち」っていうのは別にそこまで重要ではないのかもしれない。(だからなのか、私はもうずいぶん前から「意識的に」やってない…)
例えば、私の撮影エピソードで言えば
「あ、こんなこと思っちゃった。いけない。」じゃなくて、
「こういう思いが自分の中にあるのだ」ということを認める。
だって、「こういう思い」の他にも私たちは自分自身の中に色々抱えているんじゃないか、と思うのだ。
それで、カメラという存在は、それを映し出してくれるのではないだろうか。
それこそ自分の「意識」を超えて。シンプルに言えば、「無意識」を。
大嫌いだと思っている人に対して、もしかしたら何処かで愛を抱いているかもしれない。
面白おかしい瞬間に、自分のどこかに果てしない悲しみがあるかもしれない。
内なる未知を受け入れるとは、そういったひとつひとつの思いの可能性を潰さない方法になるのではないだろうか。
カメラは、人間の目よりずっとニュートラルだと思うのだ。そういうものに大して信頼を寄せて、自然に自らを開いていったときに、カメラは何かを捉えてくれるのではないだろうか。少ない経験からそう思う。思うというより、祈りに近いかたちで、そう願う。
自分の「意識」とは違う部分に、自分は沢山いて、自分は散らばっている。
未知は内部にあるのだ。
逆も言える。内部は未知なのだ。未知だから、どこまで続くか、どこまで広がるか、分からない。
だから、私はいち俳優として、こう強く願う。
私の内部はどこかの誰かの内部と交差している、のだと。
だから、きっと同じ悲しみも、同じ喜びも通ることができる。
こんな抽象的な話をしてしまうけど、演技というのは誰でも出来るからこそ、どれほどまでに、それを信じてやれるかが問題な気がする。
なんだか、そんなこんなことを感じた後は、画面に映る自分をみるのも大して嫌じゃなくなった。私でいて、私でない、というか。今日は、早速編集作業を始めた。
具体的に形を持ち始める。