ジュリエットを終えた先に。

一昨日の公演、昨日の面接を終えてDET(Diplôme d'Études Théâtrales)を無事に取得することができました。

私の学年7人全員。

嬉しかった。

 

自分のことに関して言えば、ディプロムなんかあったってなかったってどうでもいいし、(来週受けるコンクールのために必要だから、どうでもいいと言ったら嘘になるけど)一番大事なのは、ロミオとジュリエットを、この場で上演することだったので、取得したこと自体は取り立てて喜ぶことでもないけど、7人全員そろって貰えたというのが、本当に嬉しい。

嬉しすぎたのと、疲れがマックスにたまっていたのも相まって、直後に学校の外に出て、道路に向かって「7人みんな成功したぞー!」と叫んだ。そしたら、道行く人が拍手してくれた笑

 

試験は2日間にわたって行われて、1日目は朝から3分のシーンを2つ発表。私は1月にやったモノローグとチェーホフのシーンを3分バージョンにして発表。(詳細はこちら→

オーガニックな身体を手に入れる。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

この時点で、ああ私は大丈夫だな、と思った。

今までの不安定な俳優の近藤瑞季は、もういなくなっていた。

ある日はうまく行ったり、ある日はうまく行かなかったり。そういう脆さはもう私のうちには存在していないことをしっかり感じた。

今やらなきゃいけないこと、今行くべき道が、見える。そして、歩めるだけのニ本足が、脚力がある。その道や足は、今、の私についているものだから、テクニックに欠けていたり表現が幼稚だったりするけれども、でも、大事なのは視界がはっきりしていること、そして二の足に力を感じることだ。

 

午後にクラスメイトのプロジェクトで演じて、

次の日、金曜日の12時にロミオとジュリエット。

 

実は2週間ほど前から寝つきは悪くないのに、朝どうも早くに起きてしまうようになった。どうしてだろう、DETどうでもいいとか言っておきながら緊張かな、と思っていたけれども、ここにきて何故かが分かることになる。

身体が、ジュリエットを昼の12時に演じるために少しづつ慣らしていってくれたのだ。(と思う)

当日の朝は5時に起きて、家でゆっくり1時間ヨガをして、朝は9時少し前について30分発声。これをすべてやった時には、身体はもうポカポカしていて12時にはコンディションは万全だろうと感じていた。

身体は私の予想を超えて、賢い。

 

なんていうか、奇跡みたいな時間だった。

お客さんが入ったこの作品は強い。

お客さんに教えてもらった。シェイクスピアは面白おかしく、そして悲しい。

どっと笑いが起こったかと思えば、胸を締め付けるような空気が客席と舞台を包む。

 

私のジュリエットは、宙を舞うようにロミオに恋をして、強さのうちに死んでいった。

それはもう、俳優としては喜び以外の何物でもない。

役が私のコントロールのうちに、そして時にコントロールを超えて、この世界に存在している。

ボールを思いっきり蹴ったら、ボールのほうでは勝手にバウンドして、それを私は追いかけ、つかまえてまた私の手の内に戻す。そんな感覚。

 

初めての恋をして、死ぬまでの30分。終わった瞬間は、まるで一瞬を駆け抜けたような、そして永遠を生きたような感覚だった。

 

終わってから来てくれた人との挨拶。

何人かは熱い抱擁をくれた。

瞳を見ればわかった。彼らと私のジュリエットは同じ感情を通ったのだ、ということが。

人の心に触れるというのはこのことなのだろう。

心の一番やわらかい、秘密の部分に触れることが、やっぱり俳優は出来るんだ。

 

 

終わって、昨日審査員からの講評がひとりひとりに行われた。

ちょっと色々ありすぎて、受け取る情報量も多すぎて(なんといっても40分も話してしまった)、頭がいまだにぽんやりしている。

このやり取りを通して、もっともっとgénérosité(寛容)の意味が分かった。

寛容であるとは、

自分のもっているものを、惜しみなく相手に渡すこと。

本当に、本当の意味で。見返りを求めるなんて発想さえ、そこにはない。

こう言ってしまえば、まるで辞書に載っている言葉のようにシンプルだ。

だけど、その中にいったいどれだけの愛が詰まっていることだろう。

 

学校で皆が使うdonner au public(観客に与える)という表現が嫌いだった。

そこには何か上から目線というか、与える、という自発的な意図が感じられたから。

でも、それをクラスメイトに説明するたびに首を傾げられた。やっぱりdonnerっていうでしょうって。

今回、なぜ私がその言葉に違和感を感じていたのかがわかることになる。

だって、私が感じた寛容さは、相手(観客)に向かう矢印なんて一切ないのだ。

そこに、与えるという動詞はどうしても当てはまらない。

私の理解する寛容さは、私の心をふわりと広げた先にある。

私の中心からだらだらと流れて、そこにある。

 

私がジュリエットに心を打たれたから、私はそれをそこにいる人たちと共有したのだ。

ただただ、それだけだ。

 

ここでとりあえずコンセルヴァトワールは終了。

どうして私はフランスに来たのか、どうして数あるコンセルヴァトワールのうちのナントに入ったのか、どうしてこれほどまでに辛い思いをしてきたのか、それらすべてが理解できた。

全部、全部、今日ここにいるためにそれらを通ってきたのだ。

 

先週思いっきり休もうと思っていた日曜日に見ようと思って

 

楽しみにしていたswitchインタビューの坂本龍一と福岡伸一の対談の中で、生物学者の今西錦司という人の話がでてきた。

彼は山に登るのが好きで生涯で二千近い山に登ってきたそうだ。それで、「どうして山に登るのですか?」と訊かれたことに対してこう答えたそう。

山に登ると、その頂上からしか見えない景色があって、そこに次の山が見える。だからまたその山に登りたくなるんだ、と。そういうことを繰り返しながら、直線的でなくジグザグに進んできたんだって。

 

 

いま、私の目の前には俳優の道がある。

今までだって長いと思っていたけれども、いま見える道はもっともっと、果てしなく長い。

道を少し進んだと思ったら、もっと長いことに気付いた。

山を登ったと思ったら、別の山を見つけた。

でも、その山の頂上は見えない。

怖いけれども、次の山に登りたいと思うし、それ以外を進むという選択肢が私の頭にない。もはやそうして登り続けていく、歩み続けていくことでしか私が息をしていく方法はないのではないだろうか、とも思う。

 

どうすればいいんだろうか。

どうすればいいんだろう?

答えは分かっているようで、怖気づいている自分がいる。

うん、登りますという勇気がないのだ。

でも、言ってしまえばいいだけな気もする。

 

頑張れ、頑張れ、と。お前はそれが何かを分かっているのだろう、と自分が言っている。

でも、やっぱり怖いのだ。

 

 

 

それでも、言い続けるしかない。

頑張れ、頑張れ、と。

 

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