オーガニックな身体を手に入れる。
随分久しぶりの更新です。
色々、本当にいろいろあったのだけれど、どうも言葉に出来ず。
先週から、来週の発表のためのシーン稽古が本格的に始まりました。
私のシーンは、
ボト・シュトラウス(Botho Strauss)の「Grand et Petit(大きいのと小さいの)」からロッタ
チェーホフの「かもめ」からアルカジーナ
チェーホフの「結婚申し込み」からナタリア
それぞれの戯曲から一シーンごと。
それから、10月からずっと続けてきた10分のモノローグ。マリオ・バチスタ(Mario Batista)の「割れた舌」(Langue fourche)
ひとつひとつに大きな困難があって、すべてを書いていくのは難しいので、
先週の木曜日に起こったミラクルについて書きます。
話は先々週の木曜日に遡る。その日は、それぞれのシーンをみんなの前で発表していく日で、私はかもめとGrand et Petitをやった後に、続いてモノローグをみんなの前で発表するように言われた。
この2シーンが終わった後に沢山ダメだしがあり、その中で、何言っているか分からなかった、というのが相次いだのだけれども、正直発音に関しては「時間のかかるもの」と考えられるようになっていたのでそういった指摘に前ほどダメージを受けなくなっていた。
それに、舞台はもう自分のエゴをくすぐる場所ではなくなっていたので、何を言われたって自分が傷つく理由などどこにもない。
と思っていたのにも拘らず、私はまたもや傷ついていた。発音に関してあーだこーだ言われたのよりも、その指摘に傷ついたことに傷ついた。相次ぐ指摘にストレスはマックスを超えて、すでにこの時点で涙を浮かべていた。(誰にも気づかれなかったけど)
そんな中、今度はモノローグ。
最悪だ、と思った。
否、本来ならばどんな状態でもやれるのが俳優。それがプロなのだろう。
でも、全然できなかった。
最終的には最初の数行を言ったら途中で泣き出してやめてしまった。
この弱い精神状態の上に、このモノローグ、イタリア系移民の作者が自分は言葉がうまく喋れないということを自伝的に語る内容なのだ。だからこそ選んだのだが、あまりに心に直接触れる内容に耐えきれなかった。
そんなことがあっての、今週の木曜日。
自分の番が来るまでに、色々な人のモノローグ発表を見ていたら、やっぱりいい芝居っていうのは泳いでる感覚だよなあ、と納得し、自分も泳ごうと決意。
泳ぐとは、自分がやってきた練習に身を任せること。
もっと具体的に言うと、自分のセリフを暗記していること、自分の思考があっていること、そこに全信頼をもって、そういったこと全部を無視してやってみること。
今回のモノローグに関しては、暗記の際にひらすらに呼吸に注意を払った。
ある人との会話の中で呼吸の重要さに気づかされ、今回は「思考回路と呼吸を結ぶ」をテーマにやってきた。
実は、このモノローグへの自信のなさは正にこの試みにもあったりする。初めてやったことだから、あっているかどうかわからなくて、しかもテクニックとして足りていなかったりするとそこまで呼吸続かないよ、っていうのもあったり。
とにかく、地盤を固めるも、土そのものに栄養がなくてぐらぐら状態。
その点に関してはこれからも精進が必要なのだけど、
まずは現時点で出来ることをするしかない。
学校で頻繁に言われることの中に、身体をorganique(オーガニック)な状態にもってこい、というものがある。日本語のオーガニックとはちょっとニュアンスが違って、有機的な、身体がひとつにつながって纏まっている状態、という意味。(だと私は理解している。決してフランス人全員がこの言葉をこういう風に使うわけではないので注意)
俳優がオーガニックであれば、思考回路は体をあるべき場所へと運ぶし、体も思考を誘導する。そこにはもちろん呼吸も大事な要素として入っている。オーガニックな状態は、一見静止している身体にも大きな動きを生み出す。そこにはしっかり重みがあって、生命がある。
絶えず流れる川の水のように。
たぶん、木曜日私に訪れたのがそのオーガニックな状態だったのだと思う。
完璧に呼吸を操ることは出来なかったけれども、それでも呼吸は言葉を紡いだし、体を動かした。そして、面白いことに今まで一度もユーモアのある文章だなと思ったことがなかったのに、どんどん「にっこり」できる場所が見つかる!(爆笑とかでなくて、ひひひって陰で笑えるようなやつ)。いつも新たな発見に驚くこと。
さらに、オーガニックな状態というのは超集中している状態であり、演劇において超集中しているというのは、周りや自分が見えていない、或いは瞬間を覚えていないというのとは真逆で、むしろ今の状態から一歩引いて見ていられること、つまり余裕のある状態なのだと思う。余裕があるから、笑えるし、あふれだす涙をこらえることもできる。
もうひとつ大事だと思うのが、余裕があればどの道筋を通ってやってきたのかが分かるということ。いいものが出来てもそれがまぐれだったら意味はない。演劇だから何回も同じことをできなければいけない。
イギリスの名俳優と謳われるローレンス・オリヴィエは、ある晩ハムレットを見事に演じて、大喝采を浴びる中ひとりイライラしていたという話がある。「どうやったのか覚えてない。もう一度できない。」
こういった発見が今週の木曜日。
去年、友人に会ったときに「今年の目標は?」と訊かれ「止まっていても踊っているように見え、歌うように喋り、しゃべるように歌うことです」と答えたけど、あれ、ちょっとできてきてるんじゃない、と少し嬉しい。目標が大きすぎるので、一生の課題になりそうだけれども。
まだまだ、自分のやりたい演劇をするには私はエゴが強すぎるけど、ひとつずつ少しずつ理解していって、はっきりした目的地はないけれども動き続けることだけはやめたくないと思う。
何にも包み隠さずに告白すると、
私はフランスで演劇を始めてからミラクルをいくつか起こすようになった。
もちろん理由はいつも考えるけれども、何故だかは全く分からない。
でも、ひとつわかるのは、言葉の壁とか容姿の違いとか、本当はなんでもないんだよってこと。
そういう一見はっきりした「違い」は目立つけれども、人間を扱う演劇において、結局は個々人が異なることと同じ種類の「違い」でしかない。人間が生きていることは、それだけで感動的だし、だから本当に言葉の壁とかなんでもないと思う。
私がアクセントまじりのフランス語を話すことも、見た目がアジア人なことも「どうでもいい」として脇によけるのでなくてでなくて、「私、こういうものなんです」って、紹介していいことなのではないか。強調する、とはまた違う方向で。
今週の火曜日と水曜日に発表です。さて、どんなものが出来上がるか楽しみ!