長らく更新していませんでした。
来年フランスに残るために就活しなきゃと、いろいろな人とコンタクトを取り合って、進んだり進まなかったり。
色々考えたくなかったのか、やることが多すぎたのか、とにかく受験生のときのようにがちがちにスケジュールを詰めていたせいで、ここひと月、まるで生きている心地がしなかった。
脳みそが体の中にない感じで、演劇が楽しめないとかそういうレベルでなくて、まるでその場に存在していない感じが続くこと一か月。
そんなだったけれど、昨日少し先行きが見えて、驚くくらいほっとしている。
こんなにもこの件に関してストレスを感じていたのか、と本当に驚くくらい。
脳みそがないことは分かっていたけど、なぜなのかはまるで考えもしなかったのだ。
だからまあ、今日からは少し生きている感じ。
でも、たぶんこの泥沼にはまっているような一か月(別の案件を含めれば二か月の泥沼)を通ってよかったのかもしれない、と落ち着いて早々に思う。
今日も学校でみんなと話していて、つくづく自分にはテクニックと言われるものが何なのか分からないなと思った。
勿論、呼吸とか身体の使い方とか、訓練していない人にはないものがあるのは確かだ。
でも、私にとってそれはいつも儚い何かで、手放そうと思えばいつだって手放せてしまう程度のものでしかない。
「相手のセリフを受け取る」とかそういう言葉も、なんだか嘘っぽい。
なんだよその抽象的な表現は、だなんて捻くれたことを考えていた。(この死の二か月)
では私はこの学校で何を学んだのだろう。
そう考えたときに真っ先に思ったのは、「人間として生きていくための手段」だった。
完璧な人間などいないが、私は自分という不完全すぎる存在に大きな不安を感じる。
精神が非常に脆いと思う。
なにかイラっとすることがあって、それが調子の悪い時だったりすると、一瞬相手に飛び掛かるか何か投げつけようか、という衝動が体に走る。実際やったことないけど。
話すのがへたくそだ。真面目に話していても何を話したかったかよく分からなくなることがほとんど。
人の話を聞くのも苦手だ。とにかく聞けない。
どれもありふれた人間の欠点のひとつだけれども、本人にとっては大問題なのだ。
ただそういったことも、学校に入って演劇を「学んで」だいぶ改善された。
まず、人の話が聞けるようになった。これは言葉の問題もあるけど、喋れないからこそ人が喋っているのをよく見るようになって、人はたいてい話しすぎだということが分かった。
例えば誰かが泣いているのに対して、慰めの言葉やアドバイスなんかをしてあげているけれども、実はその人たちは、泣いている人は何か言いたそうにしているのを、しゃべっている間に見逃す。しかも、泣いている人は慰めの言葉やアドバイスが必ずしも必要としているわけでもない。大体の場合、慰める側の人は、慰めるという行為に対して少し気持ちよくなっているとさえ思う。
まあ、ざっくり言えば一方通行の関係が成り立っているのだ。
このことから、「相手のセリフを受け取る」の意味も具体的にわかってくるように思う。
相手をみろ、と。
相手を感じる、というと少し精神的に感じてしまうが、まあそれは言葉の綾というか、要するに相手をみて相手が何を望んでいるのかを見極めろということなのだろう。
相手が私とどのような関係を結びたいか。どんな距離感を望んでいるのか。
相手の身体がどんな状態で、目がどういう風に物事を語っていて、セリフがどのように発されているかをみる。
そして、それらをみるためには、私という俳優は「自分」と距離を持たなければいけないように思う。私の、相手とこうありたい、というある種の欲を捨て去らなければいけない。
世阿弥の言う「離見の見」とはこのことなのだろうか。
客席から自分の演技を見ているつもりで演じることを意味するこの言葉。
自分は、独りよがりに自分の話ばかりしていないか?相手のことをみているか?相手の話を聞いているか?それは客席から距離をもってみてみれば、分かるはずのことだ。
少し話はずれるが、私はヨガを二年前からほぼ毎日欠かさずにやっている。それももともとは世界のエネルギーと一体になりたいというよく意味の分からない理由からだった。深いところで、神羅万象とつながっていくというヨガのもつそのイメージが私には魅力的に思えのだ。それに、本能的に絶対に演劇に必要なものだ!と思った。
それから、夏からやっている太極拳もそうだ。空気と対話して、世界の気と共に動く。自分をなくして、他とシンクロナイズしていくその行為は演劇そのものなのだ。
学校でもダンスの授業があるけれども、たぶんこれだってそうだ。物事とつながっていくために、私はどういう身体をもてばいいのか?どういう身体が存在するのか?
本当の意味で他者とつながる。深いところで他者とつながる。そんな意味がこんな若造にわかるわけがないのは百も承知だ。
ただ、私はそのために演劇をやっているのだな、と思った。
だから、よくみんなの言うテクニックとかなんとか、あまりピンと来なくても問題はないのだ。
そういうのは私の場合、たぶん私の知らないところで勝手にくっついてくる。身に着けているときには、それはテクニックでなくて、もう私の一部になっていて、もはやテクニックなどと呼べない、それだけのことだ。
この一か月、演劇ってどうするんだっけ?ともはや迷子もいいところだったけど、それも当たり前か。日常生活で生きてなかったら、舞台上でも生きられないわ。
何が演劇か分からなくなったら、他人と深くつながるのだ、ということを冷静に唱えられる、そんな穏やかな精神が今は欲しい。