失敗について考えた。
考えたというより、思いついた。
失敗の反対は成功だというのが一般的な考えだし、私もそうだと思っていた。
私も人間なので成功したいと思って生きてきたし、
失敗を恥ずかしいことだと思っていたので、失敗はなるべく避けるように生きてきた気がする。
ただ、ヨーロッパに来てからは
「失敗は成功の素」だと思っていたから(思い込ませてきたから)
沢山失敗をするように努めてきた。
アイルランド出身の劇作家サミュエル・ベケットも言っている。
Ever tried. Ever failed. No matter. Try Again. Fail again. Fail better.
ただ、昨日ふと失敗という考え方自体ちょっと違うのではないかと思った。
演劇の話をしよう。
フランスのナントのコンセルヴァトワールでよく出てきた言葉がある。
JUSTE(正しい)
ちなみに今いるベルギーのINSASではあまり聞かない言葉だ。
この言葉は例えばこんな文脈に出てきたりする。
彼女演技、すごいJUSTEだよね。
あの時の君の演技、JUSTEだったよ。
私が理解するこの言葉の雰囲気は、その瞬間にある俳優がした演技(セリフの言い方・立ち居振る舞い・声のボリューム等々)が、カチッとハマっている、という感じ。
今、「私が理解するこの言葉の雰囲気は」なんて曖昧な言い方をわざとしてみた。
というのも、この言葉は私が演劇をしてきた生活範囲内でよく使われているにも関わらず、殆どの人がこの言葉のさす意味を何かを分かっていないからだ。
でも、そういう言葉って結構多いと思う。
「丹田を感じて」とか
「あの人は存在感があるよね」とか。
個人的なことを言えば小学校高学年の頃あたりから、私は丹田という言葉を言われてきたし、分かっているようなつもりでいたけれど、演劇を続ければ続けるほどちゃんと分かっていないこと(人には教えられないこと)に気付いて、それから勉強してみて、ようやく最近分かるようになった。
「舞台上での存在感」に関しては、未だによく分からなくてむやみやたらに使うものではないな、と思っている。
それと同じで、このJUSTEも何だかよく分からないな、と思ってきた。
正しい感じって何だろう、と。
正しいということは間違っている方法があるということだが、その間違っているというのも何だろう。
何となく折り合いをつけて分かったつもりになってきたが、誰かがこの言葉を使う度に心の中で拒否反応が出るのは変わらなかった。
そうして昨日の朝、
顔を洗って最近買ったローズウォーターを振りかけてスッキリした自分の顔をパンパンっと叩いて、鏡を見た瞬間に思った。
あ、失敗ってないんだ。成功もないんだ。
本来ならローズウォーターで潤した肌にはすぐさま油分を与えてあげないといけないのだが、居ても立ってもおられず、そのままノートに向かった。(この事態は私にとって非常に珍しいことだということを注記しておきたい)
成功という言葉が分かりやすいから使うけれども、
もはや失敗や成功という二項対立さえも無意味なのだと思う。
演劇で、何度も繰り返して「いい形」(JUSTEな形)を探していくのは、外から見た時の「わかりやすさ」(あえて言うなら成功の形)を探していっているだけの話であって、
本番という人前に出すまでに稽古で出てきた演技だけど、最終的に選択されてこなかった「失敗」たちも、実は「成功」なのだ。
ひとつひとつの失敗が成功への道なのだというモラルを説きたいわけではないし、そういう意味ではない。
そういう意味では全くないのだが、自分自身で何度読んでもそう読める。
とても恥ずかしいのだけれども、ノートにメモしたのはこんなこと。
失敗(と言われるもの)を失敗だとみなしてはいけない。
これもひとつの形なのだ。
成功も成功ではない。
これもひとつの形なのだ。
こっちのほうが分かりやすいだろうか。うーん。
どうしてもヨーロッパにいると「選択すること」というのにアイデンティティを置きたがる傾向が人々の間にあって、演技においても「数ある選択肢のなかで、今この瞬間にどの選択をするか」というのが重要なファクターになっている気がする。
でも、これにも正直違和感がある。
選んだ先に、選んだ〇〇がある(逆にいえば、〇〇しかない)、そして残りの選択肢はすべて排除した、というのはなんだかなあ、と。
もしかしたら、見た目には何かを選択したように見えるかもしれないけれど、
個人的には選択肢全部抱きしめて生きていきたいよなあ、と思う。
そういう演技がしたいよなあ、と思う。
失敗も成功もない。そういう中でお芝居をしていきたいなあ、と思うのだ。