演出作品 À l'Ouestの公演が3月11日に終わった。
どう語れば、どこから語ればいいか分からない、そんなクリエーション期間だった。
この作品の最終的な形だけを話すと、この時間について、この経験について、何も語れない。
つまり、作品としては「結果よければすべてよし」だけれど、
私個人の経験として語るなら、「過程がすべて」という言葉に拠るべきだし、そうでないと、次に進めない気がしている。
こんなことを人が読む場に書くべきなのか、自分の中でとどめておくべきではないか、とも思い、何度も書いては消してを繰り返していた。
あまりに多くの要素が交じり合って、一筋縄では、物語ることの出来ない時間だった。
ただ、私個人の物語を超えて、いくつか公の場に書き残しておく必要があると思ったので、やはりこのブログに書いておこうと思う。
とても、短い、覚書のような形になるけれど。
いつか笑い話になるように。いつか、また迷っている自分に対するメッセージになるように。いつかどこかで似たような思いで苦しんでいる誰かの助けになるように。
今回、演出したテクストは、所謂、演劇的な書かれ方はしていなくて、わかりやすい登場人物設定はないし、どこで何をしている人達かも分からないし、始まりと真ん中と終わりがあるような物語があるものでもない。
句読点もないし、どちらかというと長い長い詩のようなもので、ダイアログもそこそこに、ながーいモノローグがいくつも連なっているような構造で出来ている。
私自身、その風変りなテクストを前に、とても悩んで、迷って、その不安をあまりに見せてしまったという反省点がある。トップに立つ人間として、あそこまで迷いを共有するのは本当に違ったなと思う。
ただ、今思うのは、迷っていないで、もっとテクストを信頼すべきだったということ。
そこには、作者の意図も宿っているし、作者の想像を超えた意図も眠っている。
本当に信じるべきは、そこであった。
そして、本当に信じるべきは、自分であった。
自分、といっても、それは何か硬い自分ではなく、色々なものや人に感化されてきた自分であった。もっと柔らかな自分の心であった。柔らか、といっても、それは表面的な柔らかさや柔軟性(悪く言うと優柔不断さ)ではなく、もっと奥の奥にある、本当にフラジャイルなものであった。
そういう部分を見せる俳優と仕事がしたいのだ。
その為には、私もそういう部分を見せなければいけない。
その為には、この作品を、世界観を作り上げたいと心から願うメンバーに囲まれていなければいけない。
本当に心ある人たちと作らねばならない。
そういう意味で、やはり演劇をつくるというのは、ただの金銭の発生する仕事ではないのだ。
勿論、お給料が発生するのは当然のこととしてあるのだが、ものを作るとは、資本主義的な労働とは本質的に離れたところでなされる行為なのだと思う。
いくら演出が良かったとしても、私が本当に探しているのは、そこに入る俳優の演技なのだ。そこで寛容に広げられる俳優の魂なのだ。
それが、見つけられなかった今回の作品は、私にとっては未完のままだ。
でも、失敗したから、痛みがあったから、本当に多くを学んだ。そして、終わった今、その傷が癒えている中で、幾人もの力をかりて、彼女らの言葉に助けられ、学び続けている。
散々傷ついて、気を抜けば人を憎んだり、自分を憎んでしまいそうになる。ただ。本当に気持ちを向けるべきは、私の作品に感動したと伝えてきてくれた人たちの声と、こうやって助けてくれている人々の温かさなのだろう。
INSASでも教えており、大演出家のイングリッド(Ingrid van Wantoch Rekowski)は、昨日わざわざ時間をとって私の話を聴き、これからどうすればいいか、を一緒に考えてくれた。その時の言葉をここに書き記して、ひとまず、深呼吸をしようと思う。
「命をかけて作品をつくるけれど、大したことないのよ」
「それが、今まだ私には分からないの」
「時間が解決してくれる。時間を信頼しなさい。あなたなら、きっと探しているものを見つけられるはず。時間はかかるけれど。一度で上手くは行かないけれど。
でも、tu vas y arriver(あなたは、そうするわ)」