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舞台上での在り方。

毎年、年の末に演劇科の二クラス全体で行われるプロジェクトがある。

先生に与えられたテーマをもとに、三分間の小さな作品を作る、というもの。

去年は、「鶏のオリーブ煮」がテーマだった。(去年のこの時期の詳細はこちら→

私の新しい問題。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

今年のお題は、というと、「ストリップショー」。

クラス中の男の子ほぼ全員の十人で、近藤瑞季バージョンのボレロをperfumeのレーザービームをお借りして、一羽の丸鶏目がけて踊りました。とだけ言ってもよく分からないな笑

みんなでそろって踊る文化がないフランス人にとって、振りを覚えて合わせるのは大変、大変!

けれど、むしろその文化がないからこそ、彼らは心から楽しく踊ってくれて、多い稽古日程にも私のへたくそな指導の仕方にも一度も文句をたれることなく、個人的に最高のストリップショーが完成。(自分で自分の作品にファン過ぎて、はけ裏でニヤニヤしてた)

 

今年はそのほかに、三つの作品に出演。

お題は、Pina(ヴィム・ヴェンダース監督のPina Bauschへのオマージュ作品)

Léo FéréのLe chien

www.youtube.com

そして、20世紀初期の象徴派画家エゴン・シーレ

 

どれもこれも一癖ありの稽古の日々で書くことが沢山あるけれども、これからやってくるたっぷり時間のあるバカンスの時間に筆を譲ることにしよう。

まずは特筆すべき、公演で経験したことを書こうと思う。

今回、幸運にも3回もの公演の機会に恵まれたが、実はどれも一度も緊張しなかった。

吃驚するほど、リラックスした状態で舞台にいることができたのだ。

少し前だったら、「緊張しない」なんて、自分にとっては最悪の状態で、そんなの俳優失格だと思っていた。

だけど、今回の「緊張しない」はちょっと別物だった。

稽古をたくさんしたから自信がある、というわけでもなく、

舞台に立つことに慣れたから、でもない。

少し抽象的な言い方になるけれども、心を広げた状態でお客さんの前にいることができた、そんな状態だった。

 

この状態に至った理由に、いくつか覚えがある。

一つ目は、フランソワ・タンギとその俳優との出会い。(詳細はこちら→

不思議な一日。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

私にとって、舞台上は自分の自己顕示欲をくすぐるような場所ではない、少なくとも目指すところはそこではないということが、はっきり分かったから。

二つ目は、その週の火曜日に観たドイツ人でフランスでも人気のオスターマイヤー演出の「かもめ」(チェーホフ)のおかげ。基本的に一番前の列で観ることを決めている私は、その日も最前列ど真ん中で観ていたおかげか、劇中、女優の一人から舞台上からやり取りを受けてしまった!ふつうはあまり好まない「客いじり」(この日本語好きではない…)なのに、今回は全くそういった感じでなくて、「こういう開かれたお客さんに対する愛情ってあるんだ!」というのをダイレクトに感じたから。

 

おそらくこの二つの経験からだろう、去年のブログにも書いてあるような「お前なんか怖くないぜ」という気持ちは一ミリもなくて、お客さんの前で、柔らかい心を広げることが出来たように思う。

そういう状態だと、落ち着いて自分のやるべきことを行い、まだまだ掘り下げていけることをその場で探っていくことができるようだ、というのも今回の発見。

 

しかも今回、舞台上でしばらく待っている時間があったのだけれども、その時間、まったく眠くないけれども目をつぶっていたら、少し旅立ってしまった。

ただ、寝てただけ、といういいかたもあるかもしれないけれども、

私はそれよりもこれを、瞑想状態、だと呼びたい。

寝ている状態か、起きている状態か自分でも分からなかったのだ。

 

将来の理想は、瞑想状態でお芝居ができることだから、今回はその一歩。

 

一年前の私にこれを言ったらただの怠け者だと言われそうだけども、緊張しまくっている人間には感じられない境地があったりするのは確かだ。

 

それから、これは前から思っていたことだけど、共演者に公演ごとに恋に落ちる感覚というのはやはり大切にしたい。リラックス状態は、舞台上での恋をさらに深くしてくれる気がする。

 

今、舞台に立つのがこんなに喜びで、どうしようと思う。

こんなのまだまだ第一歩だと思うと、これから知ることになるであろう新たな場所への期待にドキドキする。

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小さな壁たち

自分を評価するとは、

自分ができることはできると認め、

できないことは、できないと認め、

それではどうすればできるようになるか

或いは、どうやってカバーしていけばいいか、

と考えることなのだ

 

と思うようになってから、生きるのが大分楽になった気がする。

演劇するのもだいぶ楽になった。

どんなに大失敗しても、自分でその失敗が受け止められ、失敗した中にも小さな発見があれば、余計に力んだ態度をとる必要もない。

誉め言葉は、ありがとう、と受け止めることが出来る。

 

単純なことだけど、全然できていなかった。

何故こんな簡単なことができなかったのだろう、と不思議にも思う。

 

今、もうひとつ問題がでてきた。

それは、ストイックさを他人にも求めてしまうということである。

自分をストイックだと感じたことはないが、(というか、むしろ怠惰だなあ、と思っている)どうやら、みずきといえばストイック、らしい。

今、自分が演出するプロジェクトがひとつある。自分のプロジェクトなだけあって、熱が入ってしまい、俳優に求めるものも当然と高くなってしまう。私としては当たり前だけれど、稽古中にいちいち無駄話が多いとか、遅刻してくるとか、自分が出来ていないのに他人を助けるとか、ありえない。身体で覚えないと意味がないことをやっているので、失敗したら間髪入れずに初めから。

それらのことは、彼らにとっては少し受け入れるのが難しいらしい。

私にとっては当たり前なのに。

 

どうやって折り合いをつけていけばいいのかな。

と、今は悩んでいるけれども、そのうちに、なんでこんな簡単なことに気づかなかったのだろう、と思う日が来るのだろうか。

 

そうだと願って、ひたすらに稽古をしていくかない、と今は思う。だから、稽古。

 

 

不思議な一日。

センスがある、とは、自分を超える何か、まったく新しいものに出会ったときに立ち止まれるかどうかだ。

 

と、大学生時代に講義で聞いた言葉を思い出した。

そういう演劇を見たからだ。

 

よく分からないまま企画され、ナントにある建築学校の舞台美術科の学生と私たちでルマンという場所まで謎の合同遠足に行ってきた。

主な目的は、フランソワ・タンギ(François Tanguy)という演出家の作品「Soubresaut」をみて、彼とのディスカッションだったけれども、誰一人としてその日のスケジュールを把握しないままミニバスに揺られてルマンへ。

変な一日はそうして始まった。

 

と、ここで実はミニバスに乗る前から変だったことを思い出した。

集合の際に、建築学校の先生から

「今日、君たちがみる作品はいわゆる演劇ではありません。テクストとか、そういうところから遠く離れた作品だから、心しておくように。ちなみに、フランソワ・タンギが今日どういった状態なのか分かりません」

と言われていたのだ。

それを言われた直後は、そんな風に言わなくても、別にどんな演劇もそれなりに受け止める懐の広さはあるさ、と鼻で笑っていた。

 

でも、そういわれたのにはそれなりの理由があった。

だって、正直、「ナニコレ?」っていうものを観たからだ。

ちょっと次元が違う、ナニコレ感。

いうなれば、悪夢の連続?この一週間の疲れも相まって途中で眠りこけたけど、起きてもずっと悪夢が続いて、本当に「ナニコレ?」って感じだった。

ナニコレ、演劇?

 

終わって、周りの人は「ちょうつまんなかった」とか「古臭い演劇」とかバンバンに悪口を言っていたけど、私は自分の見たものを消化できないまま、「超つまんなくはなかったよー」などと軽く反抗。

 

そんな中、フランソワ・タンギ登場。

普通のおじさんのようだけど、情緒不安定な感じとアルコール中毒?みたいな言動に、少し空気がゆがむ感じがする。ちょっと、普通だけど、普通じゃない感じ。

みんな変なものを観たから何も言えなくなっていたけれども、思い空気を切るようにクラスの男の子が出演していた俳優に質問を投げかける。

「俳優として、この作品にかかわる喜びは何なんですか?僕にはあなたち一人一人の人間性が垣間見られなかった」

 

それで、返ってきたのがこれ。

「あなたの言う喜びとか人間性って何?」

 

わ、と思った。だって、この返答は全然攻撃的じゃなく返ってきたのだ。

人間性、ってなんだ?舞台上での喜びって、私は感じるけれど、それが他者も同じものを感じていると何故いえる?

 

そこからそれこそ空に浮かぶ雲を掴むような調子でフランソワ・タンギが話し始める。あまりにあっちこっちに話が飛んでいくものだから、ついていくのが大変だったけれども、彼の言いたいこと、は何回も繰り返されたこの言葉の中にある気がする。

「ああー今日は曇りだ。でも、曇りだから悪い天気なのか?太陽が出てるからいい天気だといえるのか?」

 

今いる場所を疑え。

ずっとそれだけをいい続けていたお芝居だったのかもしれない。

だけど、正直まだ全然わからない。

分からな過ぎて、普段だったら絶対にしない「みんなの前で質問」をやってしまった。

言葉が口をついて出た。そんな感じ。

「これって演劇なんですか?私は面白いと思ったけど、この作品を嫌う人がいるのも理解できる。なんで観客に対してもっと開かれたものにしないのですか?」

失礼ともいえる質問をバンバン投げかけてしまった。失礼だったけど、でも、それだけこの作品が私に対して何かしら働きかけてしまったようだった。

 

全体での質問の時間が終わって、身体が熱をもって一人でカッカしているのにも耐えられず、出演していた女優さんに話しかけた。

「こういうお芝居をして怖くないですか?舞台に立つのは怖くないのですか?観客から批判されたりするのは?」

そういう私に彼女はこう答えた。

「私にとって、演劇は自尊心をくすぐる場所ではないの。そういうところで演劇を一度もやったことはない。演劇は、私がなぜ生きているか、この世界はどうなっているのか、私とはなんなのか、を考えさせてくれる場所。だから、全然怖くない。私にとって、この作品が私の人間性そのもの。」

 

この人たちは、まったく次元の違う場所で演劇をやっているのだ、と思った。

演劇は彼らにとって、もっと神聖なものなのだ。

少し恥ずかしいと思った。彼らのような演劇がやりたいとは思わないけれども、演劇に神聖さを感じる人間としては、世の中に溢れているものより、この人たち側に立っていたいのだ。私は、この人たちみたいになれないけれども、この人たち側に寄り添っていたいのだ。

 

ポーランドの演出家で今は既に亡くなってしまっているタデウシュ・カントールという演出家がいる。彼の代表作「死の教室」を学生時代にDVDで観た時の感覚は、今回の作品を観た感覚とそっくりだ。

www.youtube.com

 

その女優さんによれば、彼の死んでしまった今、それでもなおカントールと仕事をしたい俳優は、フランソワ・タンギのもとへ行け、と言われているらしい。

 

繰り返しだが、彼と同じことをしたいわけではない。

けれども、あの悪夢のような時間のなか、ひとつ終わりと始まりがあってひとつ完結した何かができたのは、一本ふといふとい芯が通っていたからだ。観客に一切媚びずに、己の道を行く、何があっても。という芯。

あ、この強さだ、と思った。

この強さがきっと私を助けてくれる。

この強さがほしい、と思った。

 

ちょっとやりたいことが見えてきた気がする。

 

踊りたい。

 

すごい作品っていうのは、私を一ミリくらい動かす力を持っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

散歩のあとの備忘録

特筆すべきことはないけど、

進まない中で、自分なりに頑張っています。

 

他人に見えなくても、自分の中では一ミリずつ動いている。

誰に評価されなくとも、自分がわかっていればそれでいい。

 

誰にも受け入れられないのならば、自分で評価するしかない。

先生から出された課題、自分のいいところを一日ひとつ書き出す、は中断していたけれど、再開すべきな気がしてきた。

誰かに一緒に演劇やろう!と言われなければ自分でプロジェクトを生み出せばいいのだ。

受け身だった日々が続いてた気がする。

なんのためにフランスに来たのか忘れていた。

 

もう少し割り切ったことを言うと、フランスであることにこだわってはいない。

ここが演劇をするのにいい場所であることは賛成だけど、ここで面白い演劇がみられるわけではない。

 

そういえば、この間生まれて初めて舞台作品を見て泣いた。

サーカスだった。Baro d'Evel Cirkというサーカス。スペイン人とフランス人のカップルを中心に集められた世界中のダンサーが馬と鳥たちと物語る。

使う言語はフランス語と英語とイタリア語。誰も母国語を舞台上で使わない。

終わった直後は、全然言葉にできなくってしばらく頭が沸いていた。

次の日ダンスの授業前に一人でウォームアップをしながら、舞台を思い出していたら、だばーと涙があふれてきた。

いい舞台は、他人にも心があることを思い出させてくれるように思う。

 

なぜ私は演劇をしているのか。

演劇でなければいけないのか。

何がしたいのか、を真剣に考えよう。常に問い続けよう。

 

 

名人に学ぶ、靄の中の進み方。

しばらく更新していなかった。

なぜって、なんだか進歩を自分の中に見つけられない日々が続いたから。

今まで、前だけ向いて、とにかく変化することに重点を置いてやってきたからかなあ。

 

そんなモヤモヤの続く中、昨日友人のtwitterを通して知った中島敦の「名人伝」を青空文庫で読んだ。

内容は話さないけれど、弓矢の名人になるために精進した人の話。

ユーモアを交えたその話に、ぐふふと笑っては、自分の情けなさを知る。

なーんだ、私なんて本当に赤ちゃんだー、と。

演劇をやっていくにあたって、きっと自分が考えているよりたくさん時間がかかることに気づく。

ネットを開けば、すごい演劇人が山のようにいることを知る。

私、こんな動きできないや、とか。

それから、「いい俳優なんてのは沢山いるんだろう」ということも、なんとなく思う。

私はその中に入っていけるだろうか。いい俳優。

 

まだまだ靄の中にいる気分だけど、

少しずつ、今までできなかった動きができるようになったりとか、

自分の発音がネイティブのそれとは違うと耳で判断できるようになったりとか、

体が力んでいるのに気づけるようになったりとか、

いろいろ、小さいビクトリーを重ねている。

今年の頭にダンサーの友人に言われたことを思い出す。

「僕たちには小さい勝利しかない。それらの積み重ねが大きな勝利へとつながっていくのだ。」

 

もしかしたら、今までも小さい勝利しかしてなかったのかもよ?

それを「大きい!」と勝手に喜んでいただけかも。

そうかも。

 

明日からも、コツコツ、精進だ。

 

私は私は私。

学校が始まって、とどまることなく様々なことをやってきたので、新しいクラスになってまだ一か月弱だということを忘れた私たちは、今ようやっとバカンスです。

去年は「こんなもんいらんわい!」と思っていたのですが、今回ばかりは必要だった笑

 

先週は木曜日と土曜日に、ナントにあるブルターニュ公城にて開かれていたフェスティバルでリーディングをしました。

数年前の私に、お城でレクチャー、なんて言ったらひっくり返るんじゃないか。

控室も勿論お城の一角で、眠れる森の美女の塔のようなものを少し上ったところにある。流石にみんなで興奮していたけど、お城のある生活がだんだん普通になってきたここ最近です。

 

そして今週からは10分に及ぶモノローグへと取り掛かりました。

 

でも、その前に、私は月曜日で躓いた。

月曜日の午後に授業がなかったので、クラウンスタージュにてお世話になったキャサリンから出ていた課題を皆で集まってやることに。

その課題とは「金曜日にやったそれぞれの小作品について話し合うこと」

担任の先生もなしで行うこと。何故なら、「仲間にダメ出し、感想を言える、というのはすごく大事」だからだそうだ。

 

それぞれから出てくる感想、ダメ出しに何となく違和感を感じながらも、何となく聞いてる。(でも最近はしっかり発言できるようになってきたんだよ。嬉しい。)

そして私の番。

吃驚した。

吃驚するくらい批判的だった。いや、もしかしたら私がそう受け取ってしまっただけなのかもしれないけれど、みんなから出てくる言葉によって、あたかも自分が最悪なものを披露したような気分にさせられた。

批判的、といってもそこまでじゃないし、根本にはやさしさがあるのだから、そんな風に受け取る私が悪いのかもしれない。

しかし、私はこの傷をその後木曜日あたりまで引きずってしまった。

 

自分でも、そんなにうまく?出来たと思ってはいないし、まだクラウンの世界に足先をチョッピリつけた程度だから、金曜日の小作品は一週間のスタージュで私が発見したものを手がかりにやった。でも、彼らからのダメ出しは、そうやって見つけた小さな私のクラウンを真っ向から否定するような、そんなものだった。それが悪意がないものだとしても、かなりショックだった。

勿論、私が見つけたものが正しいとは限らない。この先続けていれば、あれは間違いだったと自然と気づくこともあるかもしれない。

それでも、思う。私が経験した一週間、短いその時間で、私がみつけた小さな宝石は、果たしてニセモノだったのか?と。

 

こたえは、ノン。

私の小さな宝石は、変わらず輝いているし、それを守っていくのは私である、というのが今の気持ち。

私はこのクラウンスタージュを全くの白紙から始めた。日本人の私にとっては完璧によく分からないもの。対して、私以外のクラスメートはある程度のイメージを持っている。基盤が違うんだから、そもそも受け取るものも違う。スタージュの末に、私が導き出したAという事実も、それは私が皆とは全く異なったコンテクストをもって理解した結果である。だから、彼らにとってはAの対立項のBが正解だとしても、私にはそれが理解できない。だって、そもそもが違うのだから。

そんなことを、スカイプで話していた母に言われた。

 

「人の前に立つ人は大変だよね。他人の声を聴きつつ、それでも自分の信じる道を行かねばならないのだから」

 

その通り、俳優というのは矛盾している。人に見せてあーだこーだ言われるのを前提に、それをすごく気にしたり、時にそれにすごく傷ついたりしながら、それでも結局はある程度「それはそうとして!」と言い聞かせて己の信じる道を行かなければ行けないのだから。

 

他人からもらったダメ出しは貴重だし、謙虚に聞くべきだ。

ただ、悲しいかな、他人は他人である。良くも悪くも他人である。

他人は、私の頭の中がどうなっているかなんて知らないし、それを知らないで私にむかって言葉を発する。だからこそ他人からのアドバイスは私の中からは出てこないものになり、興味深い。だからこそ、時にものすごい威力を持って私に向かってくる。

決し安定したものでないものを前に、まず何よりも私が一番大事にしなければいけないのは、私自身なのではないか。

私がキャサリンから受け取った個人的なメッセージであり、それを受け取った私なのではないか。

決して驕った気持ちではなくそう思う。

 

そう、つくづく、私は違う。

フランス人じゃない。フランス文化で育ってない。見た目も違う。考え方も違う。

だからどうだとかでなくて、そうである自分を信じて立っているしかない。正直、それしか立つ方法がない。

 

スタージュ中、キャサリンに積極的に日本語を話すように勧められたのは、「日本語でしか触れられない景色があるから」だ。だから、曲を選んでこいと言われたときに迷いに迷ったけど、くるりの「ばらの花」を選んで流した。案の定涙が止まらなかった。けれど、ぽろぽろ流れてくる音と歌声に、寒かった冬の日とか、苦い恋愛とか、大学への通学路とか、あの時期に着ていた服とか、そういうことが、青春映画かよダサいぜ、みたいに思い出させられる。私が経験した私だけの瞬間。

その景色を思い出せるのはそれを通ってきた私だけで、そして、それを通って、私は今ここにいる。

 

私とあなたは違う。

違うから難しい。でもだからこそ尊い。

それを忘れずに、これからも演劇できたらいいよね。人へのダメ出しや感想も、それを大前提にして言いたいね笑

 

そうそう。この間、写真を撮ってもらったんだけど、写真でみる自分と鏡で見る自分はこうも違うかあと興味深かった。よく笑うから顔中しわだらけだし、たまに二重顎になってたりで、美しい、とは思えなかったのだけど、いろんな瞬間を通って今ここにある顔は愛おしい。これはこれで、美しいではないか、と思ったりする。

 

 

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赤、白、黒の化粧の下に。

今週は、ピエロになって生きました。

女優であり、クラウン俳優としても有名なキャサリン・ジェルマンとのスタージュ。

 

クラウン、日本で言うピエロは、フランスではひとつの演劇の形としてその地位を確立している分野らしく、多くの国立演劇学校でもスタージュとして組み込まれている。クラウン専門の学校もあるらしい。

 

そんなクラウン文化から完璧に外れている私にとって、クラウンは本当に「未知のもの」。

初めて出会うクラウン、その言葉、その世界。

受け取る量があまりにも多く、ノートにメモするペンが追いつかない。感じたこと、見たこと、キャサリンが言ったこと、全部ぜんぶ書き残したかった。

それほどまでに、クラウンは魅力的だった。

ひとつの哲学だ、と思った。

 

夏休み前にキャサリンは、私たちに手紙を送ってきた。以下、その一部抜粋である。

「クラウンは、登場人物ではありません。何者でもありません。

では、どんな「人」だといえるでしょうか?

クラウンは、人間になりたい。人間の生活の中に入り込みたい。

彼はこの欲望からできていると言えるでしょう。

その彼の欲望、生命の鼓動が、私たち人間の奥底に触れ、感動させ、笑わせるのです。」

 

この数行が、実際にやると非常に複雑だった。

 

スタージュの一週間、私たちは毎日衣装に着替え、化粧をしてまさに「大変身」をした。それこそ、もとが誰だか判別がつかないまでに。

でも、不思議なことにそれほどまでに「私」を消し去ってしまうのにも関わらず、それでもって舞台上に立つと「素っ裸」になった気分なのである。自分が舞台にいるときにもそれを感じたし、何よりも他の人がやっているのを見ると一目瞭然なのだ。

 

何故、私を消し去る行為が私を裸にさせるのか?

キャサリン曰く、「変身とは、自分自身をその中において解き放つ方法」である。

自分自身を解き放つとは、自分の奥深くに潜む欲望を知ること。知って、表に出すこと。

 

クラウンが欲望から出来ているのだとすれば、クラウンこそ私の奥底にあるもの?

ここで再び「役」と「私」の関係に話が戻ってくる。

 

役を演じるときに、私が難しいなと思うのは、私自身と役との境界線だ。

ひとつ大きな手掛かりを見つけた3月。(詳細は対話の方法。世界は広い。 - 踏み台における足踏みの軌跡。にて)

今回のクラウンスタージュを通して、3月に見つけた自分なりの演じることについての精神の透明度が上がった気がする。

私が体験したことをわかりやすく説明するために、私のクラウン「Moccha(モッチャ)」に登場してもらいます。

私はモッチャであり、モッチャは私である。モッチャはお客さんがいる舞台上へと出ていく。そうすると、私は何かを感じる。例えば、「怖い」。人前に立って何かをするのは怖い。とんでもないエネルギーが渦巻いているからだ。でも、その「怖い」を表現するのは、私ではなくモッチャだ。つまり、モッチャの役割は私の感情を翻訳していくこと。

だから、何事にも最初はものすごく時間がかかる。キャサリンがモッチャに何かを語りかけたら、それを理解したり、その言葉をからだの中にぐるぐる回していく必要がある。そして、その言葉が私に、そしてモッチャにどう影響してくるかを見極める。

それと同時に、俳優自身は、役を信頼してその身を任せる勇気をもつ必要もある。

モッチャはひとりで出来るから、私が妙に心配してどうこうしなくってもいいのだ。モッチャの感性に任せよう。

その勇気だ。

一般的に「演技が上手い」の判断が私には出来ないのだけれど、こんなことを考えると、役に自分自身を任せられている状態をそう言うのかなと、今は何となく思う。

そう思うと、役が俳優に「憑依」するというよりも、むしろ俳優が役という舟に乗って水の上で揺られているイメージがしっくりする。

演技というのは、どこかゆとりがあって流れるような行為なのかもしれない。

外界からの色々を私は感じる。それを私はたっぷりと大きな舟にだらだらと広げるのだ。舟はそれを原動力に前に進んでいく。私の意志とは関係なく、勝手に、好きな方へ。

 

これはキャサリンも一週間私たちに言い続けたことだが、お客さんが笑ってくれたからといって思わずこちらも笑うのはよろしくない。

それは、モッチャが笑っているのではなく、私が笑ってしまっているからだ。

こうやって考えてみると、日本語の「素笑い」ってなかなか言い得て妙、な言葉である。「素」の私が笑ってしまうという意味なのか。(全然分かってなかった…)

この「素笑い」はエネルギーの無駄遣いであり、今モッチャが経験しようとしたことを途中で切ったことになる。

舟に流すべきエネルギーを私自身が消費してしまっている、といったところだろうか。

 

 

あまりにも広く、あまりにも哲学的で、まだ消化しきれていない。

でも、ひとつわかったことは、クラウンは演劇の一番大事な部分を両手両足広げて見せているということ。

厚い化粧の下に、膨大なテクストのうしろに、俳優は隠れることができないのだ。

私の顔でないのに、私の言葉でないのに。

演劇は、嘘をついて、本当を見せてしまう。

 

初めてだけど、写真を載せます。

私のクラウン、モッチャです。

みんなに、「化粧すると分かるけど瑞季の鼻って長いんだね!気づかなかった!」

私も知らなかったです笑

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