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いまの私の「離見の見」

長らく更新していませんでした。

来年フランスに残るために就活しなきゃと、いろいろな人とコンタクトを取り合って、進んだり進まなかったり。

 

色々考えたくなかったのか、やることが多すぎたのか、とにかく受験生のときのようにがちがちにスケジュールを詰めていたせいで、ここひと月、まるで生きている心地がしなかった。

脳みそが体の中にない感じで、演劇が楽しめないとかそういうレベルでなくて、まるでその場に存在していない感じが続くこと一か月。

そんなだったけれど、昨日少し先行きが見えて、驚くくらいほっとしている。

こんなにもこの件に関してストレスを感じていたのか、と本当に驚くくらい。

脳みそがないことは分かっていたけど、なぜなのかはまるで考えもしなかったのだ。

 

だからまあ、今日からは少し生きている感じ。

でも、たぶんこの泥沼にはまっているような一か月(別の案件を含めれば二か月の泥沼)を通ってよかったのかもしれない、と落ち着いて早々に思う。

 

今日も学校でみんなと話していて、つくづく自分にはテクニックと言われるものが何なのか分からないなと思った。

勿論、呼吸とか身体の使い方とか、訓練していない人にはないものがあるのは確かだ。

でも、私にとってそれはいつも儚い何かで、手放そうと思えばいつだって手放せてしまう程度のものでしかない。

「相手のセリフを受け取る」とかそういう言葉も、なんだか嘘っぽい。

なんだよその抽象的な表現は、だなんて捻くれたことを考えていた。(この死の二か月)

 

では私はこの学校で何を学んだのだろう。

そう考えたときに真っ先に思ったのは、「人間として生きていくための手段」だった。

 

完璧な人間などいないが、私は自分という不完全すぎる存在に大きな不安を感じる。

精神が非常に脆いと思う。

なにかイラっとすることがあって、それが調子の悪い時だったりすると、一瞬相手に飛び掛かるか何か投げつけようか、という衝動が体に走る。実際やったことないけど。

話すのがへたくそだ。真面目に話していても何を話したかったかよく分からなくなることがほとんど。

人の話を聞くのも苦手だ。とにかく聞けない。

どれもありふれた人間の欠点のひとつだけれども、本人にとっては大問題なのだ。

 

ただそういったことも、学校に入って演劇を「学んで」だいぶ改善された。

まず、人の話が聞けるようになった。これは言葉の問題もあるけど、喋れないからこそ人が喋っているのをよく見るようになって、人はたいてい話しすぎだということが分かった。

例えば誰かが泣いているのに対して、慰めの言葉やアドバイスなんかをしてあげているけれども、実はその人たちは、泣いている人は何か言いたそうにしているのを、しゃべっている間に見逃す。しかも、泣いている人は慰めの言葉やアドバイスが必ずしも必要としているわけでもない。大体の場合、慰める側の人は、慰めるという行為に対して少し気持ちよくなっているとさえ思う。

まあ、ざっくり言えば一方通行の関係が成り立っているのだ。

このことから、「相手のセリフを受け取る」の意味も具体的にわかってくるように思う。

相手をみろ、と。

相手を感じる、というと少し精神的に感じてしまうが、まあそれは言葉の綾というか、要するに相手をみて相手が何を望んでいるのかを見極めろということなのだろう。

相手が私とどのような関係を結びたいか。どんな距離感を望んでいるのか。

相手の身体がどんな状態で、目がどういう風に物事を語っていて、セリフがどのように発されているかをみる。

そして、それらをみるためには、私という俳優は「自分」と距離を持たなければいけないように思う。私の、相手とこうありたい、というある種の欲を捨て去らなければいけない。

世阿弥の言う「離見の見」とはこのことなのだろうか。

客席から自分の演技を見ているつもりで演じることを意味するこの言葉。

自分は、独りよがりに自分の話ばかりしていないか?相手のことをみているか?相手の話を聞いているか?それは客席から距離をもってみてみれば、分かるはずのことだ。

 

少し話はずれるが、私はヨガを二年前からほぼ毎日欠かさずにやっている。それももともとは世界のエネルギーと一体になりたいというよく意味の分からない理由からだった。深いところで、神羅万象とつながっていくというヨガのもつそのイメージが私には魅力的に思えのだ。それに、本能的に絶対に演劇に必要なものだ!と思った。

それから、夏からやっている太極拳もそうだ。空気と対話して、世界の気と共に動く。自分をなくして、他とシンクロナイズしていくその行為は演劇そのものなのだ。

学校でもダンスの授業があるけれども、たぶんこれだってそうだ。物事とつながっていくために、私はどういう身体をもてばいいのか?どういう身体が存在するのか?

 

本当の意味で他者とつながる。深いところで他者とつながる。そんな意味がこんな若造にわかるわけがないのは百も承知だ。

ただ、私はそのために演劇をやっているのだな、と思った。

 

だから、よくみんなの言うテクニックとかなんとか、あまりピンと来なくても問題はないのだ。

そういうのは私の場合、たぶん私の知らないところで勝手にくっついてくる。身に着けているときには、それはテクニックでなくて、もう私の一部になっていて、もはやテクニックなどと呼べない、それだけのことだ。

 

この一か月、演劇ってどうするんだっけ?ともはや迷子もいいところだったけど、それも当たり前か。日常生活で生きてなかったら、舞台上でも生きられないわ。

何が演劇か分からなくなったら、他人と深くつながるのだ、ということを冷静に唱えられる、そんな穏やかな精神が今は欲しい。

 

 

 

 

演劇をするってどういうこと?

Nathalie Béasseとの数か月に及ぶスタージュの締めくくりとして、ナントにあるThéâtre Universitaireというナント大学にある公共劇場での公演が22日23日にありました。

大学構内の劇場だけど、かなりしっかりしていて、舞台も広い。

久しぶりに学校外での公演で、舞台上に初めて立った時に泣きそうだった。心が震えた。カーテンコールは、圧巻だった。たぶん、この言葉が一番しっくりくる。圧巻。

 

ただ、この圧巻にたどり着くまでの道程は、なだらかではなかった。

沢山の不平の声と、涙と。あと身体の痛みと笑

その中でも、スタージュがある度に、みんながぶつかって乗り越えてきた壁を取り上げたいと思う。

 

それは、ナタリーは演出家である、という事実。

当たり前といえば当たり前なのだけれども、「学校」という場所で演劇をしている私たちにとって、そのことを把握して受け入れるのはかなりの時間と忍耐を要することだった。

 

彼女は教育者ではない。だから、「お気に入り」はあるし、「彼女の世界」があるし、「彼女にとっての普通」があるし、「彼女のリズム」がある。彼女は演出家であって、彼女はただ「演出の仕事」をしているだけなのだから。

だから、俳優である私たちはそれを理解をする必要はないにせよ、

「そういうもんだ」と受け入れてそれに合わせて「俳優の仕事」をしなければならない。

 

それでは俳優の仕事とは何だろう。

それは共に仕事をしていく演出家によって変わっていくだろうし、そもそも俳優によって変わってくるものなのではないだろうかとも思う。

そもそも定義するのは可能なのなのだろうか?

 

今回のスタージュ・公演を通して、演出家との付き合いにおいては、ひたすらに「自我を消していくこと」だなと思った。

「自我を消す」というのは必ずしも「憑依する」という意味でなくて。

このことを表現するにあたっては、フランス語ではêtre disponibleという言葉がしっくりする。

日常生活ではよく「時間があること。予定が空いていること」の意味で使うこの言葉。

これは演劇に限らず精神的なことにも言えて、「いつでも動ける状態にいる」という感じに訳せるだろうか。

そうあるためには、身体はいつでもそこにいて指示された方向に動ける必要があるし、脳みそは出された指示にあまり疑問を感じずに反応できる必要がある。

(いくらかの例外を除いて。例えば私は脱げといわれたら、真っ先に無理だと答えるだろう。必要なら脱ぐかもしれないけれど、私の中の自然な反応として、それはまず「無理」となる。それはもう個人の問題だ。私は俳優である前に一人の人間だ。そうそう、例えば今回初めて舞台上で上半身下着だけになったけど、それは「人間の身体、皮膚をみるため」なので最初こそ抵抗はあったが、まあ、やった)

 

ただ、俳優の仕事は、演出家との間にのみおいて行われるわけではない。

俳優間でのやり取りも重要だ。

たぶん、最後の二週間はこちらの問題のほうが私としては重要だった。

 

例えば私にとって、稽古中に一言も断らずにトイレに行くのは、本当に許しがたい行為である。

しかし、うちの学校ではよくある。

今回の劇場稽古でも、あるシーンを通してみたら、次のシーンを始めるはずの男の子がトイレに行ってたなんていうことがあった。

ちょっと信じられなくて「だめでしょ」と言ったら「どうしても行かなきゃいけなかったんだ。瑞季に言う権利はない」とピシャリと言われてしまった。

 

このほかにもこれに似た案件が一件。

それに関して「それは瑞季が言うことじゃない。ナタリーが言うことだ。瑞季は他の人に自分のルールを押し付けすぎる」と言われた。

 

そうなのだろうか。

公演自体は上手くいったけど、そのことばかりが頭の中でぐるぐるしている。

演出家がそれを良しとすればいいのか?そんな気がするし、そうでもない気がする。

確かに私は時としてあまりに厳格すぎて、人にプレッシャーを与えてしまうことがあるのは直していかなければいけない点だとは思っているけれども。

トイレひとつになんだぐだぐだと、と思わなくもないけれども。

私はどうしても疑問に思う。

俳優の権利はどこまで及ぶのか?

 

俳優間での個人的なアドバイスはあまり好きじゃない。じゃあお前は出来てるのかって話になるからだ。

じゃあ、何があっても隣の俳優は完全放置?自分の演技に集中するだけ?

それもなんだか違う気がする。ていうか、悲しい。

演劇ってみんなでやっていくものだし。

でも、私みたいに、自分の枠を他人に押し付ける(という印象を与えた)のも違う?

誰に嫌われても自分のやり方を通すというのもちょっと違うだろう。

ていうか、私はなんだかんだ小心者だし、まったくもって誰からも嫌われたくない。

 

自分の中のルールと折り合いをつけていくべきなだけなのだろうか。

分からない。

 

ああ、こうやって考えると演劇をするっていうのは、なんて泥臭いのだろう。

他者とどのように付き合っていくかという、日常生活でも出来そうなことを、少し場所を変えて演劇という枠組みでやっているだけではないじゃないか。

それはあながち間違っていないだろうけれども、そうとなると質問は少しかたちを変える。

 

私はどのような人間になりたいのか?どのように他者と生きていきたいのか?

 

あまり上手く生きることができないから演劇をやってるのじゃない、とも思う。

私は無意識のうちにテラピーとしての作用を演劇に求めているのだろう。

 

どのように生きていきたい?

誰と生きていきたい?

どこで生きていきたい?

 

質問は尽きない限り演劇はやめられない。それだけは確かだな。

文章を読み返してみたけど、纏まりがない。

頭の中が纏まっていないからだ。ごめんなさい。

いつも「分からない」で終わるのも、日常生活の私をみているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

クリエーション真っ只中!

来週の水曜と木曜に、ナントにある公立劇場で、コンセルヴァトワールナントの契約アーティストであるNathalie Béasseのクリエーションの発表がある。

なので、今週は朝から晩までみんなで稽古、稽古。

10人の俳優と7人のミュージシャンと。

7人とも、去年のポールクローデルのクリエーション(当時のブログ記事→

対話の方法。世界は広い。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

から知り合いだけど、ここのところずっと一緒にいるからどんどん仲良くなってきている。やはり、稽古場の雰囲気は大事だ。

しかし、17人の人間がいる空間というのは、すごい。ちょっととんでもない量のエネルギーが飛び交っている。

 

 

そうそう。

月曜日には、私は一人だけパリの国立コンセルヴァトワールのコンクールを受けてきたけど、

もうこんなの体験したことないっていうくらい最悪のコンクールで

ちょっと今まで色んな意味で調子に乗っていたのかもしれないな、と反省。

私は、学校のみんなの折り紙付きの自己中だけれども、せめて演劇には謙虚でありたい。

コンクールを終えて、そういう風に思った。

コンクール直後は、これでもかというくらい悲劇のヒロインを演じさせてもらって(メトロの駅でびんびん泣いたり)

相手役のためについてきてくれた友人たちは、ほとほとあきれ返ってたけれど

少し自分を取り戻した気がする。

 

少し前のブログで書いた、「たかが演劇」は、確かにそうなんだけど、

私はやっぱり病的に素直で、一度信じたらそれを疑わずに突き進んでしまう質の人間なのは変わらないのだ。

ひとつひとつに真剣勝負で向き合っていけるという性質は捨てなくていい、私の一部。というか、結局捨てられない。

何事にも一所懸命な私と、たかが演劇と言い放ってしまえる私の先には

いったいどんな私がいるのだろう。

今は、それを探すことに向かって進んでいきたいと思う。

 

さて、自分のことは少しおいておいて、

演劇のことを話そう。

現在のクリエーションにおいて、クラス全体が難しいと感じている演出家の求めるセリフの言い方をどう自分の中で消化していくかという問題について。

演出家にもいろいろあるが、ナタリーはセリフのイントネーションを直すタイプの人だ。

なるべくシンプルにシンプルに。歌わないように。「演技」が入らないように。

 

随分前からナタリーの好みを知っている私たちは、そうしようと努力する。

なるべくシンプルにシンプルに。

「見た目」から入っていくのだ。

この作業はなかなか難しい。

なぜなら私たちが普段やっているのは、自分の内側を外側に出していくという真逆の作業だから。

だから、どうしても制限されている感が出てしまって、セリフを言う喜びにまでは到達しない。

 

どこで読んだか忘れたけれども、アメリカ人の俳優と日本人の俳優の違いを説明した文章を読んだことがある。

演出家がA地点からB地点へ移動するように指示を出したときに、アメリカ人俳優はまず「どうしてか?」を演出家に訊いて、それで理由が分かったうえで移動する。

それに対して、日本人俳優は「はい、わかりました」とA地点からB地点に移動する。これだけだと日本人の俳優が能無しのように見えるが、実はそうでもない。

どういうことかというと、日本人のほうは移動しながらその理由を体感していく、ということなのだ。

理由を理解したうえで体が動く俳優と、体を動かすことで理由を見つけていく俳優。

どちらが優れているという話でなくて、ただそういうことが実際にあるのだ、というのがこの話の最高に面白いところだろ思う。

このどちらもできたら相当な強みになるのではないだろうか?

 

自分の身体のうちで起こることと外で起こることをどのように結び付けていくか。

ここに今回のナタリーと私たちの間にある乗り越えるべきものがある気がする。

そして、その見た目と自分の身体の内側をなるべく早く繋げていくこと、そこにある種のプロ的なものが垣間見えるのではないか、と思う。

 

演出家が与えた器の中に、自ら水をはって、自由に泳いでいく方法を探している。

それで、金魚みたいになれたら最高だ。3秒後には忘れているから。

舞台上で経験した嬉しいことも悲しいことも全部忘れて、また新たに体験できたら、それはそれですごく素敵だろう。

残念ながら、私の脳みそはもう少し長いスパンで記憶していくから、それとともにやっていくしかないのだけど。

 

今週、舞台に立つ。

昨日、初めて劇場入りして、舞台の上に立ってみたけれども、感動して涙が出そうになった。

色々あるんだけれども、私の生きる場所はここだ、と本能的に思った。

色々あるんだけれども、演劇があるから私は大丈夫。

色々捨てる。

色々あるけど、演劇があるから大丈夫だ。と思うことがあった。

事件?と言えばいいのか。

 

先週の土曜はちょうど演劇なんかやめてやると思った日。

それで、今日は、演劇があるから、稽古があるから、私はまだ大丈夫。ちゃんとしていられる、と思う日。

 

自分の意識を超えたところに自分がいたりすることもある。

自分の手には負えない範囲で物事は展開しつつある。

自分の力を超えたところに他人はいる。

 

これを知ってしまった今、私はどうやって演技をするのだろうか。

昨日までと今日までじゃ、私を構成する細胞が違う。

 

偶然にも、1月からここまで伸びた髪の毛を昨日切っていた。

フランスに来てからたんぱく質をほとんど摂らなくなった私。それでも、髪は伸び続けた。身体に入ってくる僅かな栄養で1月からよく頑張ったね、私の髪よ。しかし、さよならを言う時間であったのだ。

 

ちょっと普段しないことをしてみたくなって、さっきバターとかチーズとか乳製品全部ごみ箱に放り込んだ。ごめんね、と、ちょっと思ったけど、ちょっと普段と違うことがしたかったのだ。ロックンロールとは程遠いかもしれないけど。

パンは、またあとで捨てよう。ちょっと高い良いパンだったけど、でも捨てる。

 

わざわざフランスくんだりまで来て、ロックンロールだね、と言われたけど、全然そう思わないから、ちょっと幼い私の考えるロックなことをやってみた。ロックじゃなくて、あんたそれ食べ物に失礼だよ、と言われそうだけど、でもいいの。

 

もう、自分のために演劇する。

いい子であるところを抜け出せなかったから、そういうの振り切って、セリフを言おうと思う。動こうと思う。歌おうと思う。踊ろうと思う。舞台上で生きてやろうと思う。

結局、演劇のことしか考えられないの。自分の演劇に対する思いは、誰かに語り続けていたいの。それを話し続けられる人としか、一緒にいることは出来ない。

 

 

実は、8月からここまで6キロくらい痩せてしまったのだけど、別に健康が危ぶまれる程度の見た目じゃないし大丈夫です。でも、人に持ち上げてもらうためにも、もっと動きやすくなるためにも、もうちょいと痩せたいから、ストレスでどかっと食べるのなしにしましょう。

それだけはひとつ確実な目標として、弱い私の強がりとして、ここに記させてほしい。

 

これアップしたら、パンもごみ袋にいれて、ごみ集積所に持っていく。

そしたら稽古しに学校行きます。

 

 

たかが演劇

またまた久しぶりの更新になってしまいました。

何もなかったわけではなく、むしろ公演もあったし、3月に向けてのクリエーションも、映画のスタージュも、コンクールもあったので、ちょっと息切れ気味だった。今、ようやっとバカンスだけれど、全然やること多すぎてバカンスって感じではない。でも、バカンスは今まで起きたことを俯瞰してみていく大事な時間だから、やはりブログは書きたい。

 

ここ最近、私のなかで、「たかが演劇」がキーワードになっている。

決してネガティブな意味で言っているのではなく、肩の力を抜くために言っている。

 

例えば思いっきり演技して悲しいシーンだったりすると、どうしても感情が入ってきてしまうけれども、

そこからすぐに抜け出せる能力というのは大事だと思う。常に冷静な自分がいるから、涙を流してセリフを言ったとしても、演出側からの介入があったらすぐに「あ、今のやりすぎたよね」とスッと抜けられるような軽やかさ。

涙は流れる。でも、涙なんて、目から流れる水でしかない。

流れるものは流れるさ。というような軽やかさ。

 

ただ、この軽やかさ、稽古の段階で積み重ねていかないと、本番でただの白けた演技になってしまうから要注意なんだけど。(今週の月曜のコンクールにて起こったこと)

 

最近は個人的に頭を埋め尽くすことがありすぎて、でもそんな状態だと、思考回路がスッとスマートになる感覚を覚えることがある。

私ったら、基本的に演劇のことしか考えてない。

自分の演技に音楽性が欠けていることに気づいてからは、音楽を聴けばリズムを学び、メロディを学ぶ。

まずは頭で理解して、体に落とし込む(ところまで全然できていない)。

本当は体で理解できるのが一番いいんだけど。道のりはまだ長い。

 

ここ二週間で激痩せして、周囲に心配されるけれども、軽くなった体は扱い易いし、なんだかんだ男の子には抱えてもらうことが多いので軽いほうがいいに決まってる。あ、でも健康です、大丈夫。

 

自分が人に与えられることは何だろう、と思うと、自分が演劇を通して学んだことぐらいしかない。本当はもっと魅力的になりたいけれど、今のところそれぐらいしか私にはない。

 

演劇は私に、何故生きているのか、何故ここにいるのか、何がうまくいくのか、何がうまくいかないのか、そういったこと全てを教えてくれる。

そして、それは実人生に多大な影響を与えてしまう。

 

舞台上では、実人生以上に生きている感覚を覚える。それはもう、燃えるように生命を感じるのだ。でも、ある人に、今のところ実人生の私の方が舞台上の私より魅力的だと言われたので、演劇をしているときに感じるそれは、まだまだひよっこ女優の私の勘違いなのだろうか、とも思う。

 

そしてもしそれが勘違いだとしたら、これがただの過ちであると、いつか分かる時が来るだろうか。 

 

でも、すべてあまり重く受け止めないようにしたいのだ。

だって、たかが演劇。

舞台上で死ぬのが夢だけど、照明なんかが落ちてこない限り、そんな重大なことが起こるわけでもない。やっぱり、演劇は、演劇という、ほんのちょっぴり変わった存在でしかない。

 

そんな演劇が人生をふらりと気まぐれのように変えてしまうこともある。

人間の生はきっと私が考えているよりずっと複雑なのに。

 

でもね、La vie est belle, hein ?(人生っていいものじゃない?)なんて言われると、脳が溶けそうになるくらいには、「たかが演劇」に恋してる。

 

 

 

 

 

 

 

 

オーガニックな身体を手に入れる。

随分久しぶりの更新です。

色々、本当にいろいろあったのだけれど、どうも言葉に出来ず。

 

先週から、来週の発表のためのシーン稽古が本格的に始まりました。

私のシーンは、

ボト・シュトラウス(Botho Strauss)の「Grand et Petit(大きいのと小さいの)」からロッタ

チェーホフの「かもめ」からアルカジーナ

チェーホフの「結婚申し込み」からナタリア

 

それぞれの戯曲から一シーンごと。

それから、10月からずっと続けてきた10分のモノローグ。マリオ・バチスタ(Mario Batista)の「割れた舌」(Langue fourche)

 

ひとつひとつに大きな困難があって、すべてを書いていくのは難しいので、

先週の木曜日に起こったミラクルについて書きます。

 

話は先々週の木曜日に遡る。その日は、それぞれのシーンをみんなの前で発表していく日で、私はかもめとGrand et Petitをやった後に、続いてモノローグをみんなの前で発表するように言われた。

この2シーンが終わった後に沢山ダメだしがあり、その中で、何言っているか分からなかった、というのが相次いだのだけれども、正直発音に関しては「時間のかかるもの」と考えられるようになっていたのでそういった指摘に前ほどダメージを受けなくなっていた。

それに、舞台はもう自分のエゴをくすぐる場所ではなくなっていたので、何を言われたって自分が傷つく理由などどこにもない。

と思っていたのにも拘らず、私はまたもや傷ついていた。発音に関してあーだこーだ言われたのよりも、その指摘に傷ついたことに傷ついた。相次ぐ指摘にストレスはマックスを超えて、すでにこの時点で涙を浮かべていた。(誰にも気づかれなかったけど)

 

そんな中、今度はモノローグ。

最悪だ、と思った。

否、本来ならばどんな状態でもやれるのが俳優。それがプロなのだろう。

でも、全然できなかった。

最終的には最初の数行を言ったら途中で泣き出してやめてしまった。

この弱い精神状態の上に、このモノローグ、イタリア系移民の作者が自分は言葉がうまく喋れないということを自伝的に語る内容なのだ。だからこそ選んだのだが、あまりに心に直接触れる内容に耐えきれなかった。

 

そんなことがあっての、今週の木曜日。

自分の番が来るまでに、色々な人のモノローグ発表を見ていたら、やっぱりいい芝居っていうのは泳いでる感覚だよなあ、と納得し、自分も泳ごうと決意。

 

泳ぐとは、自分がやってきた練習に身を任せること。

もっと具体的に言うと、自分のセリフを暗記していること、自分の思考があっていること、そこに全信頼をもって、そういったこと全部を無視してやってみること。

 

今回のモノローグに関しては、暗記の際にひらすらに呼吸に注意を払った。

ある人との会話の中で呼吸の重要さに気づかされ、今回は「思考回路と呼吸を結ぶ」をテーマにやってきた。

実は、このモノローグへの自信のなさは正にこの試みにもあったりする。初めてやったことだから、あっているかどうかわからなくて、しかもテクニックとして足りていなかったりするとそこまで呼吸続かないよ、っていうのもあったり。

とにかく、地盤を固めるも、土そのものに栄養がなくてぐらぐら状態。

その点に関してはこれからも精進が必要なのだけど、

まずは現時点で出来ることをするしかない。

 

学校で頻繁に言われることの中に、身体をorganique(オーガニック)な状態にもってこい、というものがある。日本語のオーガニックとはちょっとニュアンスが違って、有機的な、身体がひとつにつながって纏まっている状態、という意味。(だと私は理解している。決してフランス人全員がこの言葉をこういう風に使うわけではないので注意)

俳優がオーガニックであれば、思考回路は体をあるべき場所へと運ぶし、体も思考を誘導する。そこにはもちろん呼吸も大事な要素として入っている。オーガニックな状態は、一見静止している身体にも大きな動きを生み出す。そこにはしっかり重みがあって、生命がある。

絶えず流れる川の水のように。

 

たぶん、木曜日私に訪れたのがそのオーガニックな状態だったのだと思う。

完璧に呼吸を操ることは出来なかったけれども、それでも呼吸は言葉を紡いだし、体を動かした。そして、面白いことに今まで一度もユーモアのある文章だなと思ったことがなかったのに、どんどん「にっこり」できる場所が見つかる!(爆笑とかでなくて、ひひひって陰で笑えるようなやつ)。いつも新たな発見に驚くこと。

さらに、オーガニックな状態というのは超集中している状態であり、演劇において超集中しているというのは、周りや自分が見えていない、或いは瞬間を覚えていないというのとは真逆で、むしろ今の状態から一歩引いて見ていられること、つまり余裕のある状態なのだと思う。余裕があるから、笑えるし、あふれだす涙をこらえることもできる。

 

もうひとつ大事だと思うのが、余裕があればどの道筋を通ってやってきたのかが分かるということ。いいものが出来てもそれがまぐれだったら意味はない。演劇だから何回も同じことをできなければいけない。

イギリスの名俳優と謳われるローレンス・オリヴィエは、ある晩ハムレットを見事に演じて、大喝采を浴びる中ひとりイライラしていたという話がある。「どうやったのか覚えてない。もう一度できない。」

 

 

こういった発見が今週の木曜日。

去年、友人に会ったときに「今年の目標は?」と訊かれ「止まっていても踊っているように見え、歌うように喋り、しゃべるように歌うことです」と答えたけど、あれ、ちょっとできてきてるんじゃない、と少し嬉しい。目標が大きすぎるので、一生の課題になりそうだけれども。

まだまだ、自分のやりたい演劇をするには私はエゴが強すぎるけど、ひとつずつ少しずつ理解していって、はっきりした目的地はないけれども動き続けることだけはやめたくないと思う。

 

 

何にも包み隠さずに告白すると、

私はフランスで演劇を始めてからミラクルをいくつか起こすようになった。

もちろん理由はいつも考えるけれども、何故だかは全く分からない。

でも、ひとつわかるのは、言葉の壁とか容姿の違いとか、本当はなんでもないんだよってこと。

そういう一見はっきりした「違い」は目立つけれども、人間を扱う演劇において、結局は個々人が異なることと同じ種類の「違い」でしかない。人間が生きていることは、それだけで感動的だし、だから本当に言葉の壁とかなんでもないと思う。

私がアクセントまじりのフランス語を話すことも、見た目がアジア人なことも「どうでもいい」として脇によけるのでなくてでなくて、「私、こういうものなんです」って、紹介していいことなのではないか。強調する、とはまた違う方向で。

 

今週の火曜日と水曜日に発表です。さて、どんなものが出来上がるか楽しみ!

 

 

 

 

 

2016年が終わる!

既に年を越した日本。フランスでは、2017年までにあと数時間ある。

 

今年はどんな一年だっただろう。来年はどんな一年になるだろう。したいだろう?

なんとなく、目標など定めないままここまで来てしまっただのだけど、ちょっと口に出してみたほうがいいのだろうか。

 

フランス語を、もう少し上手にしゃべれるようになりたい。

女優としては、風を舞い上がらせたい。

経済的に自立がしたい。

アイスランドに行きたい。

きれいになりたい。

フランスじゃなくてもいいように、英語もやる。

大学時代に勉強したことをもう一度見直したい。

歌も上手になりたい。

踊りたい。

 

今は、とりあえずこんな感じ。

2017年、がんばれがんばれ!