ありあまる「ごちそう」

私の住むベルギーでは外出禁止令が段階的に解かれ、その第一回目が5月4日。

長かったなぁ、と思いながら、でもこれからも続くのか、と、私の小さなアパートにある大きな窓から見える空を眺めるたびに思う。

 

このウィルスで騒ぐヨーロッパにいながら、どうしてもこの「悲劇的」な感じに違和感を感じていた。今も感じている。

 

昨日の夜、ドキュメンタリー映画「ありあまるごちそう」を鑑賞した。

タイトルから想像は容易だと思うが、現代の食糧問題を取り上げた作品だ。

世界中の漁業、農業そして畜産業の悪化しつづける現状。

世界の「豊か」だと言われている国々では、ありあまる食糧が毎日大量に捨てられているどころか、この大量の食糧を生産するために、本来のこういった第一産業の調和を壊し(遺伝子組み換え、大型船での漁など)ている。本来まったくその土地に適していない作物を作るために、農薬をばんばんに使って。森の木々を切って畑をつくる。大豆畑。個人的には、ひよこの孵化から鶏肉になっていくまでの部分で、そのあまりに酷い扱われように思わず泣いてしまった。

全部知っていたことだけど、物理的にも精神的にも見ないようにしていたことだ。

そう。情報がかなり自由に得られる現代、この映画を観て驚く人はいないだろう。

現状、といったけどこの作品の製作年は2011年。

 

こんなにたくさん食べ物があるのに、世界には今も飢餓で亡くなる人は10万人にも上る。栄養失調に苦しむ人は1億を超えている。

この人たちのいる地域に、この大量に作られた食べ物を輸出すれば、どれだけの命が助けられるのか。人間はこんな単純な問題を解決できないのだ。

 

「今の世界経済なら120億人は救える。ということは、餓死は殺人にほかならない」

作品内で発されるこの強いメッセージに、胸を打たれた。

分かっている、分かっていたけど、なんて酷いことを私はしているのか。

 

一部の人間の「豊かさ」を求める欲望は、リミットをとっくのとうに超えている。

自然の生態系どころか、同じ種の人間の生態系を壊してまで生きてきた。

豊かな国がこのどうしようもないウィルスを生み出した。

それに加えて医療崩壊だなんだ、と。

 

結局今までの私たち「豊か」人間の日常は多くの犠牲の上に成り立っていたのだ。

そっちはどうなんだ。

このウィルスを前に、全人類は平等?アメリカの死者の「人種」を見てみれば、そんなこと嘘っぱちだと分かりきっているのに。

私は、そうやって犠牲の上に生きている豊かな国・日本で生まれ、豊かな大陸ヨーロッパに、ノコノコとやってきただけなんだ。

 

何かの犠牲に物事は成り立っているのか。

これが生きる罪なのか。

きっと昔からそうだった。

でも、今の世界は限度を超えているのだ。

昔の方がよかったとは決して言わない。昔より良くなった部分もたくさんある。

でも、それでも、今の状況はおかしい。

 

ひとつひとつの命はかけがえのないものなのだというのは分かっているけれど、

結局、ひとつひとつの命は平等でない/平等に扱われていないという事実を目の前にして、もうそんな美しい文言なんて嘘っぱちに聞こえる。

 

それでも、生きていかねばならないのか。

それでも、生きていく意味は何なのだろう。

 

 

ありあまる「ごちそう」

「ごちそう」って何だっけ?

「豊かさ」って何だっけ?

文化芸術は人の心を豊かにする?

その豊かさって、なんだっけ?