弱いほうの声をきく

聴かれない声というのはある。

 

G.Cスピヴァグによって知的に冷静にそして切実に書かれた「サバルタンは語ることができるか」は、21歳に読んだあの時から今まで、かれこれ10年近く私にこの「声」という根本的なテーマを与えつづけてくれた。大学四年生の時に講義でこの本の一節が取り上げられていたのを機に、大興奮しながら読んだのだ。読書中、世界の見え方が鮮やかに変わっていったのを映像のように覚えている。そのイメージの中には、まるで私自身が世界に対する立ち位置が変わったことを示すかのように、電車の中で本を両手で握りしめて食い入るが如く文字を追う自分の姿が見える。

発話しない声、叫ばない、或いは叫べない声。

ことある事にどこからともなく風が吹いて、それに耳を傾けるように、耳を澄ますように促されるような留学時代だったように思う。

 

そして、留学をあと一年で終えようとしている今、演出アシスタントとして参加しているクリエイションでの時間もまた、このテーマの輪郭を私の中でより一層濃く、強くしてくれている。この二か月近く思い悩む度に、もっと繊細に感じろ、と言われているようだった。ちからもすっかりなくなって「どうして」と思う夜を過ごしても、朝目が覚めて少し元気が出ると「こういうことだよ」と昨日あったことが別の顔をしてやってくる。

 

prendre sa place(幅を利かせる)とかs'imposer(自己主張(強めの)をする)とかいった態度が推奨される世界だ。今回のクリエイションもまさにそんな雰囲気にあった。

何だかなぁ、と思って内輪にちょっと話してみても分かってもらえないことが多いので、それでは、と演劇も何も関係ない人にこの心の中の引っかかりを漏らすと、「だって、そういう世界って壮烈な戦いの世界でしょ。その根性がなかったらどうしようもないじゃない」と返されることが多々だ。

 

私に根性がない(この言葉もひっかかるけれど)わけではないし、体力がないわけでもない。言葉が出ないわけでもない。

ただ、その猛烈な戦いに対して自らも牙を向くことは果たして「本当の武器」なのだろうかとはずっと疑問に思ってきた。それは、私自身がずっと牙をむいて闘ってきて、結局ぼこぼこにされた長い過去の経験があるからこその引っかかりなのだと思う。

本当にc'est toi qui dois prendre ta place(自分の場所は自分でとりにいかなきゃ)なのか? impose-toi(自分の主張をしなきゃ)なのか?聴こえないものは、ないものとされてしまうのか?それならば声の小さきものは、声を張る努力をすべきなのか?そうして声の強いものに合わせていくべきなのか?しかし一体「強い」とは何を意味するのだろうか?

ともすれば攻撃的になって相手に噛みつくことは出来そうなパワーを抱えた私は、自分の内に渦巻くやり場のない思いを、自分自身を切る刀に変えることで何とか消化しようとしてきた。

 

ただ、自分を切り続けるのも、ちょっと体力がいるし、そんなに健康的なことではないなと、ここ最近30歳になる手前に思う。


「演じる」って何だかカッコ悪いなぁ、ダサいよなぁ、と昔から思っていた。

演じたい!と思ったのは、兄の幼稚園のお遊戯会をみたこときっかけだけど、その「お遊戯会」とか「発表会」とか、そういう感じがなんか弱そうな感じ。何か披露してくれと言われた時に、音楽家みたいに一曲何かを披露できないし、ダンサーみたいにちょっと普通のひとでは出来ない動きをして「おおー」と言わせることはできない。詩の朗読なんかが出来るのかな。でも、一度も求められたことはないな。

それでもこの行為に私がどうしようもなく魅了されるのは、演じるという行為がそういう「弱きものの声を聞く」ことに繋がるとどこかで信じているからなのだろう。

実在しない想像上の登場人物になる、ということもそうだし、ある時間・ある場所に集まった人だけが共有するという演劇上演という行為もそう。

そういう小さな人々・消えそうな人々へ手を伸ばすこと、この柔らかさこそ、この弱さの中の美しさであり、強さなのだと感じ続けている。

 

prendre sa place(自分の場所をとりにいく)しながら、s'imposer(自己主張をする)しながら、弱きものの声を聴けるのだろうか?

その声を聴くための力は必要ではある。しかし、それは果たして他者を押し倒して前に進む力などではないのではないか。

 

幅を利かせることがこの世界を生き延びる唯一の手段ならば、そんな遠くない未来に限界が来るだろうなと思う。それが、私にとっての限界なのか、演劇という存在にとっての限界なのかは分からないけれど。

 

喋るとは何か?言葉とは?そこに吹き込まれる声とは?

聞こえるとは何か?聞こえないとは何か?

弱さと強さは相対的なものでしかない。

弱きものが、では実際のところ弱いのかというと、そんなことないはず。

弱さの強さに興味がある。

弱さを聴くために、みるために、そこに声を与えるために、そこに光をあてるために、

与えられた力を働かせられたら、と願う。