Journal de confinement 私のコロナ自宅待機日記6

コロナ自宅待機17日目。

 

ヨーロッパに住んでいるし、

ヨーロッパ人と生活しているし(今は遠いけれど)

でも、正直コロナコロナと騒ぎ立てるのに、疑問を感じる。

 

1月に中国でコロナが大流行していた時に、ネットの情報で武漢を中心に中国が緊急事態になっていたのは分かるのだが、やっぱり遠くで起こっていることだったし、私の周りも普通に生活していた。コロナのことは話題として話すけれども、「見て、この写真やばいよ」とネット掲載の武漢の写真を見せ合って「うわあ」と世紀末感満載の写真をみて友達と一緒になって軽い驚嘆の声を出す程度だった。

 

そんな状況だったのに、今なんでこんなに騒いでいるのだろう。

単純な話として、自分たちのすぐ近くで起こっていることだからだ。

ヨーロッパにおいて、沢山人が亡くなっているからだと思う。

そして、少し前からアメリカにまで被害は拡大している。

全世界でのコロナでの死者数は6万人に及ぶという。

 

ただ、他の土地で起こっていることに対する世界の反応というのはどうだろう、と思う。

ドイツ哲学者のマルクス・ガブリエルがこの記事で言うよう毎年20万人以上の子供がきれいな水へのアクセスがないばかりに命を落としているのだ。では何故、その子供たちを話題にしないのか?それは、その子供たちがヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)にいないからである。

ちなみに、自殺で亡くなっている人は世界で毎年80万人に及ぶらしい。

 

 

勿論、ひとつひとつの命が亡くなったことへの悲しみは否定できないが、

ニュースで、ある一人の死を取り上げるたびに、別の死を見ないこと・見なかったこと・見えないこと・ないことにしているような気がしてならない。

そしてその別の死は、毎日、毎秒起こっている。私たちが好む好まずにかかわらず。

 

 

何かを語るとき、表現するときに、私たちは何かを選んで語っているということを自覚しなければならない。

 

 

私が、安いからが理由でファストファッション系の服を買うたびに、バングラデシュやベトナムで重労働させられている人から搾取していることを自覚しなければならない。

 

私がスーパーで別に食べなくてもよかったくらいの、きれいにプラスティックに包まれたポテトチップスを買うことで、環境汚染をしていることを自覚しなければならない。

 

自覚するのはきつい。

「じゃあ、お前はもう服は自分で作るというのか?

じゃあ、お前はもうイライラしているときに、ポテチを買うのをやめるというのか?」

という疑問が出てくるからだ。(二つ目はどうにかなりそうだけど)

この疑問に対して、私は今まだ答えを持ち合わせていない。

自覚するのは、やっぱりきついと思う。

 

ただ、自覚しないでただただ悲しんでいるとか、

日本人のコロナへの危機感のなさを批判とか、

それは欺瞞だ。

 

 

結局、今海外に住む人間がSNSで発信しているような

「日本人は外出しないで。私たちのところは今こんなに大変なことになっているの。」といった類の発言は、

「運良く」、自らが住む土地にコロナ感染拡大が爆発的に起こったから出てくるに過ぎない。

それは先に経験した人間からの心配と思いやりの言葉でもある。

そういった運動を止める気は私にはまったくもってないし、それはそれでいいと思う。

でも人間の想像力は残酷なほどに小さい。

勿論、人間の想像力によって生み出された素晴らしいものも多くあるのは否定できないが、

一方で、少し離れたところにいる人間を思いやることなど、出来ない場合の方が多い。私たちは「歴史」の授業で少なからずも人間が如何に愚かであったかということを学んできた。

 

 

日本政府がコロナ対策をまったくしていないことも同じ。

国民を守ることが第一の義務である政治家が、自分の利益しか考えていない。

百貨店経営陣が、政府に対して「現金でなくて商品券を配布したほうがいい」といった助言をするのも、最早すがすがしいほど正直に自らの利益しか考えていない良い例だ。

若者は周囲のことを考えずに外出している、自分の利益しか考えていない、という批判も、この並びに入ってくるのかもしれない。

 

結局、人間の魂のレベルも、思考レベルも変わっていないのだ。

揃いも揃って。

 

人間の想像力なんて、そんなものはあてにできない。

想像力の問題でないとしたら、それは単純に、自己欺瞞だ。

このコロナ騒動は、そういったことを目の当たりにする機会なのだと思う。

 

あとは、きちんと日本の国が国民の生活を保障すること。

外出規制するのではなくて。

ここが国としての第一歩。