Journal de confinement 私のコロナ自宅待機日記1

ベルギーの外出禁止令が出て、一週間が経った。

学校がなくなって二週間。

もう本当に、何もしない、何もできなくなっていて

日々大量にネットから入ってくる変わりゆく世界の状況と

家にいて、変化のない自分との間で

どうも気が変になりそうなので、せめて生産的に見えることをしようと思い、

そうだ、日記を書こうと。日記を、人に見える形で。そうすれば、せめて生きていることを形にできる、と。

毎日、やったことではなくて、頭の中に雑に或いは複雑に過ったこと、そして考えたことを書き残そうと思う。

人に見える形で書くけれども、まず何よりも正気を保つために、自分のために書こうと思う。

 

何もしないということは、どういうことか。生産的なことをしないということは。生産的であらねばならないというこの思いは、教育の賜物か。

時間が今までとは違く流れている。時間が有り余るようにある。私は、演劇をやっているので、なら戯曲を書けばいいのではないか、とか、何かプロジェクトを考えればいいのではないか、ということになる。それはそうなのかもしれない。でも、どうもそんな気になれない。

この、その気になれない、とは何か。

どうやら、意識というのは、幻想らしいというのを最近知った。本当は、自分が意識する少し前(わたしが見た映像では3秒前)に、既に脳は何をするかを決めているという。だから、「これをしよう」と決めたのは「私」ではない。意識とか意思というのは、「私」発信ではないのだと。

何か「やる気を出そう」という意思も私のものではないし、「やる気になれない」もそうだ。

じゃあ、これをやろう、これがやりたい、これをやるしかないのだ、というのは一体どこから来ているのだろうか。

脳が、あることを経験して記憶するために、だと言っていた。それはなんだか美しい言い方だと思った。

じゃあ、私は例えば演劇なんかやっているわけだけど、役を演じるにあたって、或いは演出するにあたって、何かを意識してやる、ということをある程度求められるわけだ。

それもすべて、幻想だということか。それもすべて、私の脳が経験して記憶したいから、やっていることなのか。

経験するためならば、現実というものが重要である。現実を経験するには、身体が大事。身体という感覚器官を通して、現実を知る。経験する。

だから、身体の感受性が高ければ高いほど、受け取る現実も変わってくる。のだと思う。そう、受け取り方によって現実なんて代物は、いくらでも変わってしまう。これも幻想だ。

だから、身体論とかが巷ではブームなのだろう。それは本当にそうなのだろう、と思う。

今、家に強制的にいろ、と言われ、こちらではお決まりの挨拶のビズ(ほっぺのキス)なんかもできなくて、出来ることといったら家で一人でヨガか散歩か。それでも、それだけでも素晴らしいのだけれど。

世界がこんなにも変わっていって、家にいる私は変わってない気がする。身体が取り残されているような気がする。

考えるだけでも、動くことになるのだろうか。脳が動いているのだから。これも立派な運動。身体性、なのだろうか。パソコンの前でダラダラと文章を書いている私は、今、身体性なるものを帯びているのだろうか。