世界に対して、写真を撮るということ。

INSASの演出科には、演劇の枠に留まらない様々な授業がカリキュラムに取り込まれている。

 

そのひとつが写真セミナーである。

12月は、白黒のフィルム一眼レフ。そして、今月はカラーのデジタル一眼レフを扱い、現像までを行った。

 

12月は、リンゴを撮るということをテーマに24枚、そして人のポートレートで24枚。

今回は、ストリートフォトといって、実際に街中に出て写真を撮ってくるという課題で、60枚。

 

まず最初の感想としては、とても単純に、しかし素直に

こんなに写真が面白いものだとは思っていなかった!ということ。

それまでは、カメラをいじっている人たちなんかをみると正直、「実際にこの目に焼き付けた方がずっといいのに」だなんて思っていたのだ。

 

課題なので、まあ、と思ってやってみると、

カメラのレンズが私と被写体とを結びつける世界というのがあるのだというのが、直感的に分かった。

最初の方は、「なんだか覗き見みたいだな…」と感じていたけど、

それを講師のマリーに言うと

「それは確かによく言うけれども、でも私が思うのは、カメラで世界に存在するものを撮って、現像して、世界に返してあげることだと思うの」と。

 

なんだか、その考え方が好きだな、いいな、と思った。

そう思った瞬間、人間というのは、そういう風になるのかもしれない。

つまり、その考え方好きだな、と思った瞬間から、覗き見趣味的だと思っていた私は消えて、世界との新たな向き合い方をし始めたのだと思う。

 

ストリートフォトは、確かに最初こそ抵抗があったものの、程なく慣れていき(カメラの扱い方も)、生まれて初めてのストリートフォトとしてはとてもいい経験が出来たように思う。

幸運にも、なのか、私の心持のおかげ、なのか、写真を撮ってる最中に一度たりともカメラを向けることを嫌がられることはなかった。

時には、特別に声を掛けずに撮ることもあったし、ポートレートを撮らせてくださいとお願いするころもあった。

カメラが生み出す出会い、とでもいったところか。

 

お昼あたりに、ブリュッセルの一番の観光スポットであるグランプラスに到着。

フランス人の文豪ヴィクトル・ユーゴが「世界で一番美しい広場」と称した広場。

観光客も多いけど、私の目に留まったのは、何よりも観光客相手にお金を求める赤ん坊を抱いた女性の姿だった。

彼女がグランプラスにあるカフェのテラス席で、テーブルごとに物乞いしに回るけれども、みんな断るか、明らかに嫌そうに避けて無視するか。

ヨーロッパでは多く見かける、街中での物乞いする人々。

多くの場合、無視されている、この人々。

私だって、こういった人たちに何かを手渡すことは殆どない。

 

この瞬間、人々を魅了する美しい建築物が立ち並ぶ広場で気にかかったのは、他でもないその女性であった。

カメラを向けてシャッターを何度かとってみるも、何かが「撮れた」感じがしない。

 

もやもやとしながら歩き、ベンチに腰を落ち着ける。

すると、ふと大きなコントラバスを抱えた男性が私の隣に座る。

これまた観光客相手に路上パフォーマンスをしているミュージシャンである。

ビール缶を片手に携えている。

彼は、こちらが大分じっと見つめるのにお構いなしに、良い感じの座り心地を探し、ビール缶を開ける。

声をかけよう、声をかけよう、撮らせてください、学校の課題なんです、それだけだ

とひたすら心の中で呟いていた。それでも、彼に声をかえる勇気がどうしても出なかったのだ。

どうしようもないな私、と思いスクっと立ち上がり、恐る恐るレンズを向けてみる。

相変わらず彼はこちらにお構いなし。

まず最初は、あたかも彼の頭上にある建物を撮るかのようなふりをしてカメラを構える。

たった一回のシャッターチャンスだ、と思い、グッとカメラのレンズ角度を変えた。

その時の一枚がこれだ。

 

 

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撮った写真を見て思った。

「あ、私はこういう無視されてしまうような人に興味があるのか」と。

(路上ミュージシャンも、日本同様、多くの人にスルーされてしまう)

 

自らの内なる小さな炎に気付き、わずかに高揚しながら歩みを進めると、今度はブリュッセル中央駅に着く。

人の行きかいが多いから、何か面白い被写体はないかな、と思い駅構内に入るけれども興味をそそるものは特にない。

再び外に出ると、車いすにのった老婆が犬を抱えて寝ているではないか。先ほども通った入り口である。

でも、気づかなかった。この路上生活者の老婆に。

 

これは、撮らなければ。

他の幾人かの路上生活者の目がこちらに向いているを感じる。

そりゃあ、彼女は寝ていて、しかも所謂社会の周縁に追いやられた存在だ。

見ようによっては「除き見」と受け取られても仕方がない。

それでも、マリーの言っていたことを思い出して、

「これが、ブリュッセルのもう一つの姿なのだ。世界の一つの姿なのだ。」

と思い、シャッターを切る。

実は、最初はこの老婆に対して斜めにカメラを向けていた。

しかしそうして数枚撮った写真を見ると、グランプラスの物乞いの女性と同じく、何も映ってない、何もつかめていないように思えた。

これは、真正面から撮らなければだめだ

と思い、彼女に対峙する位置に移動する。

ファインダーを覗く。それでもまだ違和感がある。

そこで、マリーがその前日に私たちに向けて言っていた言葉を思い出す。

「被写体を見つけたら勇気を出して、あと5歩進みなさい。」

そうだ。

勇気を出して5歩進む。

5歩進んで、シャッターを下ろした。

 

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そのまま写真をみずにその場を去った。(去り際に自分用のお昼ご飯に用意していたバナナを、彼女の目の前にひっそり置いて。感謝の気持ちを込めて。)

正直、写真としては成功しているとは言えない。

まだ、カメラが、私が彼女に対して遠い。

それでも、この写真を撮るに至るまでのプロセスが、自分としては非常に印象に残るものだった。

 

 

正直、ヨーロッパに渡ってここ数年は自分のことに精一杯で、周囲に目をやる気持ちの余裕があまりなかった。

自分を取りまく環境に関心が出てきたということか。

しかし、その関心というのが友達などの近しい存在ではなくて、普段の生活の中で実際の関りなどまったくない社会的に「存在を無視されている人」であるということに気付いたのが今回の発見であった。

個人的には驚くべきことだ。

 

 

私は演劇人として、演劇をどうしたいか、世界とどう対峙するのか。

私が演劇をするのは、私が見る世界を共有するためか。

存在するものに、形を与えるためか。

 

 

 

マリーが「私が思うに、優れたフォトグラファーっていうのは、自らが見たものをそのまま写真にして表現できる人だと思うの」

と言っていた。

カメラの扱いにもなれたその日の夜、見てみたい世界が一枚撮れた。

優れたフォトグラファーではないけれども、こういう世界が見たい、というのは強くある。

 

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怖くなるような、恍惚とするような、そんな瞬間にも、様々な生き物がそれぞれの持つ旋律にのって調和を保って世界を構成していればいいな、と思う。