数学者の岡潔に一時期はまっていた時期がある。
森田真生氏の「数学する身体」にも思いっきりはまっていた時期。
彼の本は、こちらに持ってきている数少ない日本の本のひとつ。本は重いから、あまり持ってこないようにしている。今はkindleなんて素晴らしい文明の利器もあるし。
今は、手に入れられるものだけ、手に入れる。
岡潔の残した有名な言葉にこんなものがある。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである。
スミレは、ただスミレのように。あるがままに。
その周りがどうなっていようと、関係のないことなのである。
ただ、与えられたいのちを精一杯に生きる。
スミレにとってそれは、ただひたすらに咲くということ。
この間、「演劇は必要か?」という問いに関してクラスメイトに話す機会があったのは、先日の記事で書いた通り。
その時、私が言ったのは、かいつまんで言うとこうだ。
「私は、極論自分にしか興味がない。
ある役を演じて、自分が何を感じるか。
ある役を通して、自分がどう変わるか。
ヨガをすると、息が大きく吸える。一体自分の内側で何が起こっているのか。
歌のレッスンをして、自分からだのある部分に響かせると、こんな音がでる。
そうやって自分のことにばかり興味がある。
こんなんでいいのか、と思うことが無いわけではない。
でも、そうやって生きていると、ある瞬間に
「あ、この目の前にいる人も、私と同じ人間なんだ」
と思うことがある。これはいいお芝居を観た時と同じ感覚。
でも、こうやって、相手も自分と同じ存在だと実感していくのはとても大切な作業な気がする。
何故なら、人間は、自分の気持ちを殺して
相手を人間だと思わなくなった瞬間、
その人を殺してしまうこともあるからだ。
目の前にいるその人も、自分と同じく
喜び、苦しみ、表面では笑ってるけど心は悲しみで染まり、強い愛と共に自分でも目をそむけたくなるような憎悪も内に潜めている
そういう同じ人間なんだ。
この気づきは、とても重要なことではないかと思う。
芸術は、まずアーティストとして生きる私たち自身にそれを思い出させ、そして観客・鑑賞者にそれを伝える力をもっている。
演劇人は、観客の目の前でそれを実現することができる、そういう人たちであり、
だから、演劇はやっぱり必要だと思う」
みたいなことを言った。(かいつまんでないか、長いか)
でも、どうやらその場にいた半分くらいの人には私の言いたいことが伝わらなかったらしくて、
私はただの自己中人間だと解釈されてしまったらしい。
正直、がっかりし、少し傷つきもした。
でも、もういっそそれでもいいんじゃない、と思う。
岡潔の言うスミレのように、私も私の芸術を生きていけばいいんじゃないか。
演劇がどう役に立つかは、あまり考えなくても、いい気がするのだ。
野口三千三氏の「原初生命体としての人間」より
自分の感じている一番大事なものが、他人に通じようか通じまいがそれは二の次のことだ。他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は、みずからを損なうだけでなく、相手を侮蔑し愚弄する以外の何物でもない。自分が今、ここで、ほんとうにやりたいことをしていること、それ以外の別の所に、自分のいのちがあるはずがない。この生々しい強烈ないのちの火花だけが、相手の中に何事かを起こし得る唯一のものであろう。
「他に通じさせようとする一切の妥協、卑劣なおもねり、愚劣なサービス精神は」
っていうのが、ピリーとしていて、堪らない、かっこいい、って思う。
そうだそうだ。
このままでいいじゃない。
伝わるかどうかは、二の次である。
そういうことを、体感した日本での夏だったではないか。
昨今話題のグレタ・トゥーンベリのあの語気の強い激しいスピーチ。
彼女こそ、まさにいのちを燃やして火花をバチバチ飛ばしている。
彼女の姿をみていると、小学生の頃の自分を思い出すよう。
(私の場合は、卒業アルバムの最後にのせる作文を7回くらい書き直させられて、大分あの忌々しい小学校の思い出を「美しい」感じに語っているけれど。私は、この人ほど強くないなあ)
小学生の自分が、2019年において16歳のあの少女に癒されるような感じがする。
本当にそれは、考えれば考える程、救われるような気持ちなのです。