「頑張らない」ことのススメ。

木曜日に演出家・パーフォーマーのAnne Thuot(アン・チュオ)とのセミナーが終わった。11月に1ヶ月、そして3月に1ヶ月と行われたセミナー。

(アンとの11月の授業の詳細はこちらから→退屈はつまらなくない。 - KONDO MIZUKI'S BLOG)

 

11月の時点では、様々な実験的なエクササイズに疑心暗鬼だった私たちも、3月になったら、寧ろ自ら進んで色々やり始めたり。

 

色々、の中でクラスメイトたちと考案して、最後まで嬉々としてやったのが

相手にビンタを連続20回食らわす。(自分も受ける)

というもの。

しかもかわいいペチンとしたビンタでなくて、本物のビンタ。

12人6組が同時に舞台の両袖から出てきて、舞台中央に一列になったところで、目の前にいる相手にビンタを食らわす。12のビンタの音が同時に響く。一度相手を叩いたら、また同時に全員袖にはけて、また舞台上に戻る。ビンタ。

これが、20回。

 

最初は相手に痛い思いをさせるのも申し訳なくて、控えめにやってたのが、日を重ねるごとにもっと試したくなってきて、木曜日の学内発表では、見事にビンタを受けたし、食らわせたし、本当に自分の中の変化に吃驚しているところ。

 

 

勿論、やりたくなかったらやらなくてもいい。

やらなかった人もいるし、どうしても叩けなくて手を振り上げた先にふんわりと頬を包んだ人たちもいる。

一番面白いのは、本当にビンタを受けた時、或いはビンタを食らわそうとした時に、

私はどうなるか?私のリミットはどこなのか?

これが分かっていくプロセス。

そして、自分がリミットだと思っていたものがどんどん変化していく様子。

 

 

アンに12月の教師陣からの講評の際に言われたことがある。

私は彼女に「周囲のモチベーションの低さにがっかりする。彼らがもう少しやる気があったら、全体的に変わるかもしれない」と言ったら

「そうね。でも、そうじゃないかもしれない。」

と言われた。

「授業中に携帯いじってる人がむかつく」と言ったら

「一度、授業休んで1日家で携帯で遊ぶ実験してみたらどう?」

と言われた。

 

 

それを受けて、今回のセミナーでは、意識的に「頑張る」ことをやめたのだ。

(どう「頑張る」ことをやめたのかは、書くのには複雑なので割愛します)

恐らくどの国の教育システムでも「頑張れば出来る」というような根性は多かれ少なかれ子供たちに教え込まれる。

勿論、「頑張る」ことは大切なのだ。頑張った末に手に入るものがある。

でも、「頑張った」からといって手に入らないものもある。

むしろ「頑張らない」ことでしか手に入らないものだってあるのだ。

それを一般教育機関では教えてくれない。

 

「頑張る」ことでここまで進んできた私にとって、「頑張らない」ことの居心地の悪さと言ったらない。

ダラシナイ人間な気がする。何もしてない気がする。ダメなことをしている気がする。

しかしこのどれも私の脳みそに埋め込まれた情報が照らし出した感覚に過ぎないのだ。

 

 

実際に、私は「頑張らない」ことで多くを学んだ。

頑張らないことで、舞台での「私」の在り方が変わる。

頑張らないことで、出る声の質は変わる。

頑張らないことで、出てくる反応がある。

頑張らないことで、観客とのやりとりの質が変わる。

どれも感じたことのない領域。

 

2年前くらいだったら、舞台上で相手に痛い思いをさせる演技なんて身体のコントロールの出来ていないやつ、くらいにしか思ってなかった。

 

私たちのビンタ20回の場合だと、全員一緒に袖を出入りする、という枠組みがあり、ビンタを食らう/食らわす俳優としてはアドレナリンが出まくって身体が興奮しまくるけれども、そこは落ち着いて「演技」しなければいけない。ここで暴走してしまうかどうか、が演技かどうかの差。コントロール外になるということは、本来は枠組み自体が許さなさいのだ。

 

以前は、「本当に舞台上で相手に痛い思いをさせてはいけないのか?」という疑問さえ抱いたことがなかった。

ある程度痛い思いを経験してみて(命に係わるような痛さではない)、絶対に相手に痛い思いをさせてはいけないのか、といったら、それは違うのではないかと今は思う。

 

舞台上の俳優の「笑い」もそうである。

アンは、「笑いたくなったら、大いに笑いなさい」と舞台上での爆笑を大推奨。

ということで、セミナー中に私たちは大いに舞台上での笑いを実行したわけだけど、それは思ったより全然悪いものではなかった。(もちろん最初は、それでも笑いを抑えていたわけだけど)

そうすることで見ている人と舞台上との関係が変わるのだ。

 

これはいわゆる「素笑い」なのだろうか、と考えてもみたが、違うのではないかな、と思い至った。

「素」というのは日常生活での私のこと。

舞台上で私自身である、というのは、恐らくあり得ない。

舞台上で人に見られた瞬間、私は私から少しずれたところにある私αになる。

笑うことでこの私αが反応して、そこからまた見ている人の反応がある。そうすることで、また笑った私αが変化して。

これが演技するということなのではないだろうか。

演技がうまいというのは、相変わらずよく分からない。ただ、この私αへの変化でよしとしたときに面白いことが起る。これが演技ということなのかもしれない。

 

「頑張る」ことをやめた私は、大分気分も穏やかに、言いたいことは言う、然るべき時に言う、ということを、以前よりすんなり出来るようになってきたので、昨日のようやくの春の陽気に、お日様の下に出るたびに「春だねぇ」と友達に「分かったよ」と飽きられるほど言われるまで言っていた。

気持ちがよいから中庭で伸びをしていると「カッコつけてんじゃないよ」と友達に茶化された。

よりよく生きていくために、演劇があるのなら、どんな演劇があってもいいのじゃないか、と前よりもオールオッケーな自分になっている。

どんな演劇がしたいか分からなかったけど、それも全然オッケーです。

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昨日の反省会?は中庭でお菓子をつまみながら。