私の通うINSASには、所属する演劇科の他にも映画科が存在する。校舎がちがうので、なかなか彼らとは交流がないが、新学期は初の2コース合同授業で映画史の授業から始まった。
映画史といっても、「昔からやってもキリがないので、現代からやります」。
と、講師のパトリック・ルブート(Patrick Leboutte)。なかなかに粋な始まり方。
個人的には日本で大学にいたときも演劇・映像コースに属していたので、おおまかな映画史は一応知っている。それに加えて10時から19時までみっちりと座学だったものだから、どんなものだろうと身構えていたが、先生の繰り出す映画と彼の映画への愛に、すっかり感動の連続の4日間だった。
以下は授業内でみた映画のリストです。(wikipediaで日本語ページのあったものはリンクを張っておきました。また、youtubeやdailymotionでも作品の一部や時には全編があげてあったりしたので、それも張っておきました)
①Antoine Boutet(アントワン・ブテ)監督『Le plein pays(満ちた国)』
Extrait du documentaire "Le Plein Pays" - YouTube
(2009)
②Denis Gheerbrant(ドニ・ゲールブラント)監督『Et la vie(そして人生は)』Et la vie (Denis Gheerbrant) - Vidéo dailymotion(1991)
③Jean Rouch(ジャン・ルーシュ)監督『VW』VW Voyou - Jean Rouch - Niger, 1974 - YouTube(1974)
④Yann le Masson(ヤン・ル・マッソン)監督『Heligonka(ヘリゴンカ)』(1985)
⑤Jean-Lousi Comolli(ジャン=ルイ・コモリ)監督『Cinéma documentaire, flagments d'une histoire(ドキュメンタリー映画、とある歴史の断片)』
⑥Pier Pasolo Pasolini(ピエル・パゾロ・パゾリーニ)監督『Il Vangelo secondo Matteo(奇跡の丘)』Pasolini _ Vangelo secondo Matteo - YouTube(1964)
⑦Jean Vigo(ジャン・ビゴ)監督『A propos de Nice(ニースについて)』A Propos de Nice - Jean Vigo (1930) - YouTube(1930)
⑧Jacques Rozier(ジャック・ロジエ)監督『Adieu Philippine(アデュー・フィリピーヌ)』Adieu Philippine, Jacques Rozier (1962) - séquence de la promenade - YouTube
(1962)
⑨Abbas Kiarostami(アッバス・キアロスタミ)監督『Le pain et la rue(パンと裏通り)』(1962)
⑩Jean Rouch(ジャン・ルーシュ)監督『Jaguar(ジャガー)』Jaguar (1967) - YouTube(1955-1967)
以上。ちなみにパゾリーニの『奇跡の丘』は最後のイエスキリストが十字架にかけられる部分だけ抜粋して観ました。パトリックがドキュメンタリー映画の専門家だけあって、ドキュメンタリー映画が中心だった。
作品も、先生の言葉も、大きく、重い。
どんなに年齢を重ねようと(彼は現在59歳)、映画にこんなに熱い思いを持ち続ける人がいる。そんな光景は私たち学生にとって大きな救いである。
「世間ではすぐに言葉を作り出して、全部ing化して(コーチングとか)、物事を考えようとしない傾向がある。だから、僕たちは、ここ(学校)で時間をかけて物事と向き合うんだ。時間をかけて、考えなさい。」
だから、時間をかけた4日間。
芸術家は考え続ける。むしろ考えることが芸術家であることとも言える。
パトリックはこのように言っていた。カメラが撮られる人間、そして撮る側の人間をacteur(アクター)にする、カメラが人から言葉を紡ぐように迫るのだ、カメラがあって初めて出てくる言葉があるのだ、と。
カメラが作り出す、撮られる人間と撮る人間の関係。それは、逆に言えばカメラがなかったら生まれ得なかった関係だとも言える。
極論を言ってしまえば映画と演劇の唯一違う点は、まさにそこにある。
映画はカメラが映し出す被写体と、映す側のカメラを扱う人間、更にその向こうにいる観客との関係を作り出す。
一方演劇は、たとえ演劇作品で映像が使われていようと、観客と舞台上の人間は直接に結ばれている。
『Et la vie』では監督が80年代にフランス、ベルギー、スイスの「寂れた」という言葉を超えた、社会から見捨てられたような田舎の労働者たちや若者に出会っていく。一番最初に現れる男性(彼の部分は、上にのせたリンクで観られる)。身内を亡くした貧困の中で生きる若者。全然若者に見えないが実は22歳なのだ。貧しさ、悲しみが、人をこんなにも老いさせる。メディアが取り上げない現実。それをル・マッソンのカメラが捉える。カメラがあるから、この若者も喋る、喋ることを迫られる。そんな瞬間がこの作品にはいくつもあった。
芸術は、私と他者とを結びつける。
その意味において、芸術はその内容如何問わず政治的なのだ。イデオロギーとか、そういう話じゃない。どの政治団体に賛成だとか、そういうのでもない。
ただ、わたしはひとりではない。それを現前させる。芸術の本質は政治的なのだ。
Je fais du théâtre pour crier à la place de ceux qui ne peuvent pas crier.
(私が演劇をやっているのは、叫べない誰かのために叫ぶため)
私が誰かに寄り添ってみようとする、その立ち位置に近寄ってみようとする、そこからの世界をみてみようとする、たとえそんなことは出来ないとしても、それでも、そうしようとする。
正直言うと、この4日間あまりに多くの情報を受け取りすぎて、何か考えたかというと、考えたような考えていないような。
ただ、ひとつ自分の中で分かったことがある。
もう、演技が上手いとか下手だとか、そういうのはどうでもいいということだ。
長らくそこにしがみついてきたけれども。
それよりも、私は俳優という芸術を行っていきたいのだ。
そもそも演技の巧拙というのは、あまりに主観的な気がしてならない。
演劇は嘘の芸術だ。なので俳優は大ウソつきということになる。誰でも人生で一度は嘘をついたことがあるように、誰でも皆一度は、俳優であったのだ。だから演技の技術という面で言えば、経験を積んで真面目にコツコツやっていれば(真面目にどうやったらうまく嘘をつけるかを考えて練習していけば)どうにかなるものだ。だから、ある種その気さえあれば誰だってある程度は上手くなれる。
では、なぜ偉大な俳優というのが存在するのだろうか。
恐らくそれは、彼ら・彼女らの演技が芸術という域に達しているからなのだ。
あるシーンをみて、ある台詞を聴いて、ある表情をみて「あ、これは私のことだ」とか「これは、私の愛する人のことだ」と感じる。その時に、俳優の演技は芸術的なものになる。
フランス語では「感動する」というのを「être touché」と表現する。直訳だと「触られる」。
だからからか。感動というのは、やはり触られることなのだと強く思う。
それでは何に?この世に存在しているすべてのものに、だろう。
だから、俳優は、しっかり存在していなければならない。
誰かにtoucher(触る)ために。
そのためには、相手の存在もしっかりと把握していないといけない。
把握するというか、認めるというか。たとえ直接目に見えなくても。
他者の存在を認めるとは何か。
他者を尊重すること。
他者を尊重する、とは。
自分と同じだと思うことではないか。
以前、目隠しした状態で、目隠ししていないパートナーと一緒に走り回るというエクササイズをした。(しかも、そんな12組が一斉に走り回っている空間を…)
その際に、武術家の甲野善紀氏が言っていた「相手にやられないようにするには、相手の重心に自分の重心をもっていく。逆だとやられてしまう。」というのを思い出して、なるべくそのようにするよう努めた。
そして一緒に走ってみると、私とパートナーの女の子の身体が重心そのものになったような気がして、全然走るのが怖くなかったのだ(全然と言ったら少し嘘。膝は少し曲げてた笑)。チキンレースのように壁に向かって目隠ししたまま走る、というのも試してみたが、ここでもやはり彼女が止まるタイミングで同時に止まることが出来た。
信頼する、とかそういう言葉はどうも苦手だったけれども、どうもこれは頭で考えてるためにその感覚が曖昧になるのではないか、と思う。
信頼する、とか、相手を尊重する、というのは本来身体的なものなのではないのだろうか。
精神的、身体的、と話すこと自体少し違うかもしれないけれど。
ただ、そういうものって、考えているよりももっとずっと具体的なのではないだろうかと思う。
アートという言葉も、アーティストという言葉も苦手だった。
気取った雰囲気があるし(たぶんそうやって自称する人であまり感じのいい人に出会わなかったせい)、なんだか掴みどころのない言葉のように感じていた。多用するけど、誰も内実分かっていない、というか。口に出して言ってみたところで、誰も同じ意味を共有していない、というか。
でも、もう大丈夫だと思う。
芸術というのは、私と誰かを結びつけるもの。
芸術によって、私は誰かに触ることができる。
久しぶりの再会に家族に抱擁するように。
親友との別れ際に「またね」と抱擁するように。
恋人と日々の暮らしの中で抱擁するように。