わが自我に疑いなし。

エゴについて考えることが多い。

演劇なんかやっていると、それこそエゴがなかなかに強い人が多い。

でもそれは決して悪いことではなく、エゴという言葉につくイメージこそ悪いが、そもそもエゴとは日本で言えば自我であり、もっと親近感のある言葉で言えば「わたし」のことなのだから、良いも悪いも、それはあって当たり前のものなのだ。

 

芝居をするということにおいて難しいのは、その「わたし」の取る幅が多くなってしまう時に厄介であるということ。色々な演技の仕方があるとは思うけれども、やはり役という、他者の自我を演じるのであるから、単純に考えて俳優自身の自我の割合が多くなってしまうと、役を演じるという枠組みからは離れてしまうのではないだろうか。

 

アーティストという言葉はどうも苦手だが、話を進めるために芸術活動をする人をアーティストと呼ぶことにする。

自我と向き合うということはアーティストにとって大きな課題である。

俳優などは、演じたあとには観客から拍手をもらうのだ。称賛されるのだ。

これは何なんだろうと思う。

だって、こちらとしては、自分の身体を役にかしただけ。あるいは作品世界を立ち上げるために、身を捧げただけ、なのに。

でも、拍手をされるのは、間違いなくアーティスト自身なのだ。

「わたし」こそが称賛の対象なのだ。

 

しかしよく考えてみると、その瞬間に確かなのは「わたし」ではないか、と思うのだ。

私は役を演じるというのは少し狂気じみている行為だな、と思う。

だって、いったい誰が

「ほかの馬を!傷を縛ってくれ!神よ、お慈悲を!」(リチャード三世 福田恒存訳)
(これはいま稽古中のリチャード三世の台詞)

のひとつひとつの台詞に繋がりがあるなんて言ったのだろうか。

ここにこめたシェイクスピアの思いがあるなどと保障しているのか。

そう書いてあることは事実だけれども、そこに「思い」があるなどというのは、こちらの思い込みであると思う。

でも思い込みですね馬鹿らしいですね、ではなくて、

それでもそこに「思い」があると信じること。

ただの文字でしかない台詞を、意味と文字との間を行き来する想像力をつかって、登場人物を現前させること。

そうすることが、そうしようとあることが、俳優であることだと思う。

 

信じるのは「わたし」以外の何者でもない。

そして、わたしはこの顔、声、身体からできている。それはこの現実世界とわたしの思い込みをつなぐひとつの具体的な要素ではないかと思う。

 

この世界にあって、この世にないものを繋ぐのは、現実世界に存在している「わたし」というこの具体性である。

でも、霊媒師ではないから、あの世にすべては捧げられない。

どうしても「わたし」のフィルターが通る。

この「どうしても」の部分と自分の信仰の先のせめぎ合いの中で表現していくしかないのではないだろうか。

 

現実世界の私はというと、今は待ちに待った冬のバカンスでゆっくりしている。

でも、課題もめちゃくちゃにあって、他にやりたいこともあるのになあ、と思いながら課題もやっている。風邪のようで寒気がするので、今朝はベッドの中で黒澤明の「わが青春に悔いなし」を観た。お昼を食べて、このブログを書いて、これからまた課題に戻ろうと思う。

そのすべてすべてが私であって、この私とお芝居をするのだ。

心の中に渦まく自分に対する疑念と希望と共に、お芝居をやっていくしか、ないのである。

来年もまた変わっていくこの私と、私は、芝居をしていきたいのである。