退屈はつまらなくない。

書くことも書きたいこともたくさんたくさんあったのですが、あまりにもやらなければいけない課題が多すぎて、こんなにも久しぶりの更新になってしまいました。

 

今取り組んでいる課題は、

前回観たChristiane JatahyのIthaqueの舞台美術のレポート作成。

一年かけてソフォクレスのアンティゴーネを上演するということを想定して演出ノートの作成。

ラシーヌのベレニスの舞台美術を構想(年度末には模型を作る)。

メイエルホリドの演劇論に関して調べる。

 

今のところ、これらすべてが冬のバカンス明けまでの課題。

INSASは8時から17時までと授業の時間自体には余裕がそれなりにあるけれども(他の国立演劇学校はものすごく遅くまで稽古することも多々あるらしい)、特に演出科の学生は俳優科に比べて冗談じゃなく10倍くらいやることが多く、結局は全然、自分で関心のある本を読んだり映画を見たりする時間もないのが悔しい。

息をつく間もなく、正直ぎりぎりだけど、(しかもまだ滞在許可証などお役所面でうまくいっていない。泣きたい)でも面倒くさいわけではなく、今までとは異なる視線で演劇をみたり考えたりすることができて、それは本当に楽しい。

 

演出科の授業はそんなこんなで手いっぱいだけど、俳優科と混ざって行う授業は、ナントに居た時とは違う手ごたえがある。

まだとても自分をいい俳優だとは思えないけれども、いい俳優への道を辿っているな、と感じるようになってきた。

そういう風に思うのは、自分はまだまだだなあ、と思うからだ。

少し矛盾しているだろうか。

でも、学べば学ほど、俳優という仕事の困難さに終わりはなく、もっと知りたいことが沢山あるのに、長い目でみなければ手に入れられない感覚の存在の多さに、思わず肩を落としてしまう。

だから、そういう意味で、やはりいい道を辿っていると思う。

自分はこれでうまく行ってきた、だからこのやり方が正しいんだ、という風に固くなってしまったら、それが真の終わりである。

信念は丈夫に持つものであって、固くあってはならない。

人間の骨の形というのは絶対にかたまることはなく、常に変わり続ける存在らしい。

(だから、こちらに来て歯ぎしりの癖がついた私の顔は少し変形してしまった気がする)
人間の身体がそういうものなら、それが基礎として動く俳優は、やはり「凝り固まって」いてはそれは不自然だし、そうなってしまうなら、それはどこかが詰まっているということだろう。

 

これと同じ理論で「退屈」という考えがある。

退屈、或いは飽きた。そういう感覚。

私はどうしてもこの言葉に悪い印象を抱いてしまうし、なるべくなら避けたい感覚。

だから、退屈を避けるために私はなるべくたくさんのことを抱えて、飽きたら別の作業をする、という方法をとっている。

だけれども、恐らくこれは、よくない。

さっきの言葉でいうと、どこか詰まっている、そんなやり方だ。

 

10月いっぱいの授業を受け持っていてくれていた女優のアン(Anne Thuo)は4週間にわたって、何度も何度も私たちに向かっていくつもの質問を投げかけた。毎回授業が終わるころには、私たちの頭は疑問でパンパンだった。

どの時間も、頭を悩ますことが大好きな人類に属する私には、最高の時間だったけれども、

「退屈についてはどう思う?」

これに関しては、げげーという感じだった。

この言葉がアレルギー反応が出るくらい苦手だ。

つまらない芝居をしないようにこの学校にわざわざ居るのだし、とにかく退屈は敵だと思って生きている。

しかし、「退屈は本当に悪いこと?」という問いかけに、ウっとなってしまう。

泣くことが卑怯なことだとか、面倒くさいことだとか思われている社会にモノ言いたい私にとっては、ひとつ大きな関門なような気がしたのだ。(泣くのはだって、悪くない。だって、言ってしまえばただの水である。何故それが良いだ悪いだって、決められるのか)

 

専門家でもないし、詳しく調べたわけでもないのだけれども、どうやら「退屈」は人間の神経が創造性を発揮するために、次へと進むために必要な要素のひとつであるらしい。

 

いや、確かにこの話も面白いのだけど、私はどちらかといえば、「退屈」を悪いことだと決めないこと、という話に興味を持つ。

 

泣くこと、を恥ずかしいことだと思うのをやめたのはナントのコンセルヴァトワールに通っていた時だ。色々な悔しさや悲しみに泣いて、それは泣いて、とにかくよく泣いたのだ。

涙はとても寛容なことの印である、という風にクラスメイトの子が教えてくれたのが初めで、その後はクラウンスタージュの際に、涙は目から流れる水である、との講師からの言葉にハッとしたのだ。

 

そういえば、この時も「涙を悪いことだと決めない」選択をした私があったのだ。

 

これと同じで、「退屈を悪いことだと決めない」と選択してみるのはどうだろう。

退屈は退屈でそこにある事象である。

それと同じで、失敗も。

失敗した、と決めるのは誰なのか。

失敗ではなくて、成功でもなくて、ただ何かやった結果、そこに出てきた事象。

 

そうすることで、社会の卑怯者だった涙が、ただの塩水に変わったように、

私の最大の敵であった退屈が、手の出しようのない、或いはあえて手を出したくない時間とか物事なんかに変わったりする。

穴があったら入りたいような失敗をしたと思っても、実は失敗だと思っているのは自分だけだったりする。

 

ネガティブなことは何もなく、そうであると決めるのは自分である。

だから、ネガティブな視点を取り除く、という選択をするのも自分である。

 

凝り固まることから少し身を引いたときに、ある種の諦めとともに、ふとほぐれる瞬間がある。人間の身体のように。