耳を澄ますこと。

ひさしぶりの更新になってしまった。

学校に加えて引っ越しやら、アパートの大掃除やらで忙しくしていたらまるで何かを書く時間も、ましてや考える時間もなくなってしまった。

こうなってみて、本を読む時間も映画を見る時間もたっぷりあった日々の如何にありがたかったかを思い知る。

 

さて、学校が始まって三週間が経った。

面白いことも詰まらないことも、気に入ることも気に入らないことも

山のようにあるけれども、

それでも与えられた環境に感謝して、楽しむことは忘れないでいたい。

人生において起こることは、よく見てみればすべて何かの栄養になるのだ、と大好きな女優のファニー・アルダンが言っていた。

 

演出科の授業には、舞台美術と照明の授業がある。自分で模型を作ったりもするらしい。こんなことを人生で経験すると思っていなかったので非常に面白い。戯曲を読んだり、お芝居をみるときは勿論、日常生活での視点も変えてしまうので面白い。

 

 

学校には一番若くて19歳の子がいて、この間は肩を組まれて「なんで受かったんだろうとか、演劇を本当にやりたいのか、とか考えこまずに、目の前のことに取り組もうぜ!」と言われて、その意気込みに圧倒されてしまった。

私は19歳の時どんなことを考えていただろうか。

そんなに純粋に演劇を楽しんでいたのだろうか。

 

私が彼らの年齢には、大学でのサークル活動に勤しんでいた。

サークルの体質が合わなくて俳優としては散々な思いをし、演劇をする喜びを見事に奪われていた。そんなの演劇じゃないと今なら幾らでも戦えるけれども、あの当時の私にはそんな自信はまるでなかった。

だから、この同級生の純粋な気持ちは、眩しくもあったし、妬ましくもあった。

当時の私は、こんなに真っすぐに輝く力をもってなかったし、環境がそれを許さなかった。

それでも、お芝居が大好きな気持ちはやっぱり心の奥底でふつふつと音を立てて燃え続けていて、21歳で生まれて初めて自分で脚本を執筆し、演出を経験した。

仲間集めやら何やらもとても大変だったけど、同時にとても楽しかったなあと懐かしくなる。しかもやっぱりきちんとお芝居をやろうと必死だったんだよなあ、と嬉しくなる。こんなに当たり前のことを書いてどうしようもないなあ、と思いつつも、とてもシンプルにこのことを覚えている。

分からないなりにがむしゃらにやって、それで知らない間に気づいたらベルギーにきて国立演劇学校に入ってしまったのだなあ、と感慨深くならざる負えない。

 

19歳の同級生には、「それでもね、27歳になっても悩むの。いくつになっても、悩み続けるんだよ。それに悩んでいるのってとっても人間らしいと、私は思うの。」そう声を掛けたけど、きく耳は持たずに、肩をがっと掴まれる。

少しむっとしたけど、それでいいのだと思う。

私にはなかったエネルギーがこの彼の中に流れているのだ、と思うと、本当に圧倒される。

いいな、と思う。

16日に27歳になってしまって、この歳になって、何をしているのだろうと思うのだけど、でも今にしか見えない景色があり、今でしか聞こえないことがある。

だから、これでいいのだ。

聞こえない音があることは分かっていながらも、なるべく多くの聞こえない音をこの耳でひろって、ひろうよう努力して、そうしてまずは27歳、胸を張って生きていきたいと、そう思う。