女優を続けるべきだと思う?
という質問に対して、
「きみが一番知っているはずだ。」
と返された。
今まで手を変え品を変え、様々な言い方をされてきたのだけれども、これが一番響いた。誰に言われたか、もそうだし、いつ言われたか、も重要だ。
そう、私が一番知っている。
誰に言われなくても、これは自分のやりたいことなのだ、と。
心から望むことなのだ、と、自分というこのよく分からない存在が一番わかっているのだ。
しかし残念ながら、いつもいつもそんな気持ちが続くわけでもない。
上手く気持ちが巡らなくなるたびに、去年の6月末に学位取得試験の際にもらった講評の録音を聞く。しかし、そのたびに、自分はなんて頑張っていないのだろうと落ち込む。それに、そんな期待するようにはなれない、むこうの大いなる勘違いだ、と思う。
もっと頑張ればいいのだけど。
たまにふと分からなくなる。
頑張るというのも、今まで「苦労」という言葉が似合うと思っていたけれど、今までの経験からすると、喜びのなかで生き生きとして頑張るという方法があるのだ、ということを、そろそろ受け入れなくてはいけない気がしてきた。
そう、ある物事を受け入れる、ということがどれ程までに難しいのか。
それは身体的にはどのような変化をもたらすのだろう。
身体的に、ある物事をまるごと受け入れる、とはどのような状態なのだろう。
今は、頭では分かっているはずなのに、身体がそれを受け入れられない、そんな状態。
しかし、身体が分かっていない、というのは要するに、全然わかっていない、ということなのだろう。
ああ、お芝居したい。もっともっとお芝居がしたい。
朝から晩までお芝居がしていたい。
明日は「そうそう、私はいい女優になるのだ」とあっけらかんと、しているだろうか。
どうしてこうも、毎日毎日が巡っていくのだろう。
明日が来ることを知らないような存在になれたら、どんなにいいか。