何か書かなければ、と思い、パソコンを開いてみたが、何を書けばいいか分からない。
ただただ、今は、お芝居がしたいのだ。
今年のアカデミー賞で、日本人として初のメイク・ヘアスタイル賞を受賞した辻一弘さんが言っていた。
「夢があったら、絶対に他人の意見を聞かないように、自分に正直に、自分の心にきいて決定すべきなんで。親がどうこう言おうが、友達がどうこう言おうが、絶対きいたらダメです。先生も。結局自分で生きていくんで、他の人に責任はないし、他の人は分かりませんから。絶対に自分で18、20歳を過ぎたら自分の人生は自分で決めていかないと、絶対に後で後悔する。」
この本当に自分がしたいこと、というのを
ここのところずっときいてみている。自分の心にきいてみているのだ。
しかし、これが分からない。
そんなの50になっても、本当に自分がしたいことなんて分からんわ、と言われる。
そうなのだと思う。
それと同時に、本当に自分がしたいことは、掘り下げていけば、ひとつキラリと輝いて心の奥底にあるのではないか
とも思う。
ここ3か月間、沢山の人に会って、それぞれの意見をきいて、それでもうこれは、どれも名答だし、どれも大外れなのだという結論に至ったのだ。
別の言い方をすれば、
結局、じゃあこれはもう、どっちを好きかっていうことだろうな、ということだと考えるに至ったのだ。情、というやつだ。
私はどっちが好きなのだろう、と。どっちを言うのが好きなのだろう、と。
そう自問すると、そのどっちにもいたくない自分が出てきてしまう。
いたくないというか、その間にいざるを得ないというか。
だって「全然わからないのが当然」も「すっきり晴れやかに分かる」のも
なんだかどっちも本当な気がするのだ。
それで、お芝居をするということは、
「どっちも私の心の中にある」ということを認めることなのだ、ということだと思っている。
随分前になるが、友人に「俳優は最も古い職業のひとつ」だと教えてもらった。
ずっと昔から、人間は「演技をする」ということをやはり必要としていたのだ、と励まされる思いだった。
私がこうやって演技をすることに関して阿呆のように悩んでいることを、昔の人もずっとずっと繰り返してきたのだろうと、やはりそれも励まされる思いである。
その長い歴史の中で「どっちも私の一部である」と思うのは、そりゃあそうだろうねえ、と思えなくもない。いえ、どっちかひとつを選んでください、正解はひとつですと言われたら、悲しすぎる。情が働くとしたら、そこだろうか。悲しいのは、いやなのだ、と。
何か新しいことをしたい、とは変わらず思い続けているのだが、
そうしたときに、過去や過去の人に手を伸ばす作業というのがどうしても必要になってくるようだ、ということに最近自覚的になった。それはなんだか救いのような気がする。
はやくお芝居がしたい!
激しい欲求は叫んでおいたほうがいいと思うので、叫びます!タイトルとか。