演劇を、ふたたび。

たぶん初めてくらいで自分のフランス語で演劇をする姿をみた。

 

入学してからの2年間の学校でやった公演の動画をもらったのだが、本当に、初めて自分がどういう風にお芝居をしているのかを目の当たりにした。

 

自分が演技しているのを見ることほどの拷問はないが、頑張って、見てみた。

というか、これも勉強だな、と思って、苦しいが、見た。

 

へたくそな発音に、上手くまとまっていない身体。1月の公演では、そんな発声じゃいつか声をダメにするよ、と今なら分かることがあったり。今なら、もっと見えるひとつひとつの台詞の可能性。

 

今ならわかる。でも、あの時は分からなかった。

今でも分からない。だから、まだまだ探し続けねばならない。

 

もう幾度となくそう思って、次こそは次こそは、と思うのだが、それでも毎回、新たな発見があって、参ってしまう。

 

底なし沼にはまってしまった。でも、これはずっと昔から。それで、ずぶずぶとはまっていく感覚に、私は最早はまってしまったのだろう。

でも、その沼に沈んでいく正にその瞬間にも、多くの人と出会い、教えてもらい、感動して、いちいち恋に落ちていく。

 

もっと、自由な身体が欲しい。自由な思考が欲しい、と思う。

それで、たぶんそれは、可能だと思う。

 

「君のここがいいね。」と言われたときに、大して嬉しくもないのは、私が一人の人間として見られていて、その人の見ている先に女優の近藤瑞季がいないからだと思う。

でも、私は人間ならだれでも演劇ができると思っていて、演劇はその人の中心、その人の持っているマグマみたいなものを露わにするものだと思っているから、本当は「君の、人としてのここがいいね。」という言葉にも喜びを感じるべきなのだ。論理的に言えば。でも、まだそれを受け入れられていないということは、私はまだ完璧に自分の考える演劇を信じ切っていないということだろう。悔しい。

思考は感覚の先を行ってしまう。あまりに考えすぎて、感覚を疎かにしてしまった時間が長すぎる。でも、感覚は私をどこか知らない場所に連れて行ってくれることも分かっている。

身体でもって、心でもって感じたことに自分を流していくこと、寄り添うこと。

これも訓練だろうから、忍耐をもっていかなければならない。

 

これからどうなるか、それは分からないけど。

ただ、信念をもって、いちいち心揺さぶられることを怖がらなければ、忘れなければ大丈夫だと思う。

 

しっかり自分の両二本足で地面に立っていたいと思う。