チャイコフスキー 弦楽セレナーデハ長調48番

現在、ナント市では、ナント・日本の交流プログラムがかなり大きな規模で催されている。

私も通訳としていくつかのプログラムに少し参加するのだが、何せ通訳など初めてで、与えられた仕事をきちんとこなせるのか(出来ないに決まっている。こんなこと言っていいのだろうか)、心配でたまらないが、ここにきて再びフランス語の基礎を見直そうとしている。

 

そんなひよっこの私だが、先ほど私よりより小さな人たちの音楽会に行ってきた。

滋賀県からさきらジュニアオーケストラの若者たちが、はるばるナントまで演奏にやってきたのだ。私も若者に所属するぐらいの年齢なのだが、彼らは私よりさらに若者で、一番の若者はなんと6歳らしい。(私といえば、その4倍以上生きている)

 

そんな若者たちの演奏会は1時間程の小演奏会だったが、私はすっかり心を打たれてしまった。音楽のことなぞ全くといっていいほど知らないのだが、それと心を打たれるのは関係ないように思う。と言いつつ、今から書くことにビクビクしているのだが…。

 

演奏自体は最初は緊張しているように聴こえたが、それもライブの楽しみである。音楽も演劇と同じ。一生をかけて成長していくもの。だから人間が生きるように音楽も生きる。人間が緊張すれば、音も緊張する。そんなのはアマチュアだからだよ、と言われてしまうかもしれないが、私はそういった面を何よりも愛しいと思うのだ。

そんな少しカタイ演奏も、後半になればだんだん伸びやかになっていく。とはいってもそんなのも彼らの本領ではないのかもしれない。でも、音楽を知らないような私にとっては(やはりここは強調しておきたい)、自分よりもうんと若い人たちがこんなにしっかりと演奏を出来ていること自体、吃驚仰天なのだ。

 

コンセルヴァトワールで音楽科の生徒たちによる演奏はいくつか聴いてきた。演奏中、どうしても今までの演奏と比較してしまって、「うん、しょうじき贔屓目なしでも、(日本のみんな)なかなかなんじゃない」なんて思ってしまった。

それで、思い出した。私がコンセルヴァトワールに入った当初言われた「瑞季は、それなりのテクニックもあるけど、もっと楽しまなきゃ」という言葉。

それを言われたとき「はい?テクニック?そんなの学んだ記憶ありませんよ?」とポカンとしていたのだが、こうして「学校」で演劇を学んでみると、分かる。ああ、なるほど私はテクニックは確かにある程度あったのだろう、と。学校に行ったことでその成長速度は早まったが、恐らく日本でも演劇を学んでいくことは出来たのであろう。

それはきっと音楽においても同じで、技術は学ぼうと思えば本場ヨーロッパ人に負けない程度学べる。ダンスだってそうだろう。美術だって、なんだって、きっとそうだ。

 

じゃあなんでみんな留学するの、なんでわたしはわざわざフランスくんだりまできて演劇をやっているの?

 

出会うべきもの、ひとに出会うためじゃない?

人生経験を積むためじゃない?

ヨーロッパの空気を吸うためじゃない?

そしてそれらを演技に生かすためじゃない?

 

そんな問いがだだだーと頭の中を駆け巡った。

駆け巡って、目の前で音を奏でる若者たちをボーと見ていた。

ボーとしていたら、曲の終盤に差し掛かっていた。

チャイコフスキーの弦楽セレナーデハ長調48番。

それまで繰り返されていたテーマが何度も繰り返される。高みを目指すように。まだ完成しない。まだまだ。これではまだ終わらないのだ、と駆けていくように。

 

音楽のこと本当に何も知らないのでこんなこと言うの最高に恥ずかしいのだが、そんな風に思ったのだ。馬鹿お前ここで一息ついてる場合じゃないだろう、まだ何もしていないじゃないか、と自分の怒声が聞こえた、気がする。

 

胸のすくような思いだった。

そんな思いが今もしている。

 

こんなこと書きながら、思い返せばフランスに来る前からそういったことは分かっていた気がしなくもない。それでも、日本を飛び出さずにはいられなかった。実際に経験してみないと分からないどうしようもない馬鹿者なのだ。

しかし、愚者は愚者なりの進み方があるのだろう。そうやって今までとりあえず生きてきたのだから。(先日、26歳になったのだ。)

 

こうやって、私は若者たちに励まされるのだ。

わたしはこの若者たちにいつか何かしてあげられることがあるだろうか。

私が多くの先輩たちにしてきてもらったように。

 

とりあえず、愚者の背中を、見せることはできるのではないだろうか。

今のところそう思う。

 

チャイコフスキーの弦楽セレナーデハ長調48番。

https://www.youtube.com/watch?v=DHtojYUEVz8

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