生まれて初めての遠征公演というものをしてきた。
6月にあった卒業試験DET(DETに関する記事はコチラ→
を再演するという機会を、リヨンの郊外にあるVilleurbanneという街にある劇場が、幸運にも与えてくれた。
本当に与えてくれた、という言葉がぴったりで、というのも、二年間散々学校で演劇漬けだった私たちは現在、授業なし、特に雇ってくれるカンパニーなしの状況に、ぽんっと投げ出されているのだ。空虚、とはこのことだろうか。果てしない孤独に、先週は毎日シクシクと泣いていた。
そんな中、救いのように、この初「ツアー」。
小さい劇場だけど、たった一日だけだけど、初めての再演を経験することになった。
さて、このツアーを通してはっきりしたことがある。
先週、思い切って書いた記事(いい俳優になりたい。 - 踏み台における足踏みの
跡。 )は、案外間違ってなかったということだ。
演劇そのものや、演劇を通して世の中に訴えていくこと、そこで起こる人間ドラマには大して興味がない。
本当に面白いのは、自分の身体を通して、観客や相手役と繋がれること。
だから、稽古や公演を通して自分がいくら成長しても、どんな苦労を経験しても、演技をすることでその繋がりが生まれなかったら、面白くない。
最近、私は頻繁にraconter une histoire(物語を語る)という表現を使うようになった。何が起こっているのか、その作品で自分が面白いと思った部分が何なのか、それを伝える、というごく単純なことなのだが、私はこれが出来ている舞台作品に、いったいどれくらい出合ってきたのだろう?恐らくほとんど、そんな経験はない。
そしてそういったことを俳優として経験したこともほとんどない。
物語を言葉で語るだけでは駄目なのだ。皮膚感覚レベルで、具体的な心象の動きとともに、他者に伝わらなければならないのだ。
勿論、他者に伝わった結果、それぞれに見える景色が違うことはよい。むしろそれが普通であり(違う人間なのだから)、それこそが素晴らしいことだ。
ただ、伝わる瞬間に奥深くで繋がる感覚というのは、やはり、あるのではないだろうか?
そんなの思い込みなんじゃないの?と自分でも随分思ってきた。
だけど、確かにそういうものはあるのだ。目に見えないけど、あるもの。
赤外線とか、気とか、微生物とか。ちょっと例がバラバラかもしれないけど。
私は、一度経験してしまったから。そういう感覚を。
それはたいそう心地よいもので、誤解を恐れずに言えば感動的なのである。
そして、私はそれを、出来ればもう一度、もう二度と感じたいのである。
そうすると「観た人がいいと言えばよし」という話ではなくなってくる。「今回は、これこれこういったことが出来るようになった」でもない。「あなたは素晴らしい俳優ね」という言葉が、終演後にあればいいわけでもない。
どうやら目指している道は長く孤独なものであるようだ。
そんなことが、今回分かったことである。
ついで、といっては何だが、美食の街リヨンにいながら全くもって劇場にこもって美味しくない冷たいパンとアボカドとばっかり食べていた私は、随分と不機嫌であった。
本当に、インスタント味噌汁の存在に助けられた。ジャズピアニストの上原ひろみさんもインスタント味噌汁をツアーには必ず携帯しているようなのだが、うんうんそうですよねえ、と、分かってしまう。分かってしまって少し嬉しい。
私を助けた味噌汁たち。