演出プロジェクトが終わって、一週間以上が経ちました。(詳細は前回ブログへ
俳優であるとは。ある俳優から若者たちへ。 - 踏み台における足踏みの軌跡。)
私は演出と出演を一本ずつ。
難しかった・・・。
何が難しかったかというと、扱ったテーマがとてつもなく大きすぎた。
移民問題。
なんて書けばいいか分からない。
移民問題、と書くこと自体に抵抗を感じる。
去年の9月にシリア人の子供がトルコの海岸に亡くなって漂着してから、世界中で移民問題に関する熱が高まった。
だけれど、正直私には遠い出来事すぎて、そういったことが事実存在するのは頭では理解しているけれども、戯曲を読んでも想像してみても、どうにも私には、戯曲もその事実も宙に浮いているような感覚がしていた。
この感覚は、2年前に宮城の閖上地区を訪れたときのものと同じだ。
あの時、私は広い土地に、3月11日以前はあったでろう家々の基礎と、お茶碗や家の窓のガラスのかけらや、背が高かったために完全に破壊されなかった小さめのビルを実際に目にして、
想像できない。
と思った。それしか思えなかった。
ここに家がありました、人が沢山住んでいました、と言われれば何とか、しかしそうでなければ、私はここに人が沢山人が住んでいたことを想像できるだろうか?
私が直面したのは、その地域を襲った災害の傷跡ではなく、自分自身の圧倒的な想像力の欠如だった。
「瑞季は想像力が豊かだね。感受性が豊かだね」と言われてきたそれまでの人生。
どこがだ、と思った。
私の想像力は、こんなもんだ。
演劇の世界で、私たちはフィクションをつくる。
嘘をつく。
でも、演劇のすごいところは、嘘をついているのに、それが本当になったりしてしまうことだ。
虚構の中に真実が生まれてしまうところだ。
人間の想像力はすごい。
でも、圧倒的現実を目の前にして、フィクションはなんの力も持たないのではないだろうか。
例えば、私が遭難にあって死にゆく移民女性を演じることは、傲慢ではないのか?
これが完璧なフィクション(例えばポールクローデルのtête d'orなんかは完全に創作された人物、世界だ)なら、そこに人間の想像力は介入しうる。
しかし、移民問題は現実に起きていること。
彼らから何かお借りして、「これはヨーロッパ諸国の植民地支配の結果なのだ!資本主義の犠牲がこの人々なのだ!」ということを言うために、彼らを演じるのか?
何回か周囲に相談してみたけれども、結局この問題は解決できないまま、舞台に立つことになった。
私が演じたのは、遭難にあって、まさに海に沈みゆくその瞬間の女性。
終わり当たりの台詞で上を向くと、光があって、天井は高くて金属っぽくて、何もない。
実際には、この守られた広い空間にいるのが私だ。
「私の死体を、そこで、どんなふうに待っているの?」
という台詞に思わず涙が出る。
のも、なんて傲慢なんだ、と、思う。
最後の最後に練習ではやらなかったことをやった。
日本でこんなことやったら怒られてたと思う。
でも、先生や演出の子からはよかったと言われた。
だからと言って、嬉しかったかというと、分からない。
私が本番で今までで一番いいことをやったところで、何も出来ていないのだ。
演劇において、パーフェクトはないけれども、今回はなお一層のこと、自分が足掻いても何もできない、ということに直面した気がする。
まだ解決できていない。
演劇をする上での正当性について。
まだ考える。
因みに、最近は演劇という芸術における、永久に完成することのなさについて考えています。手がかりの映画。久しぶりに観たら、泣いた。