「私」と「他者」の交差するところ/しないところ

時間が少し経ってしまいましたが、8月25日・26日に早稲田大学どらま館にてワークショップを開催させてもらいました。タイトルは「演出ってなんだったっけ?ー聴くこととと語ることを通して演出を再考する」。

 

演出家向けのワークショップというのは、実は、なかなかない。

それもそうだろうな、と思う。というのも、私自身、自分で企画しながら、なかなか全体の構想を練っていくのに骨を折ったのだ。

INSASで4年間「演出」を学んできたけれど、それでは実際に演出家を育てるための具体的なエクササイズをやってきたかというと、違う。日々行ってきたことは、書くこと、考えること、喋ること、調べること、黙ること。これらを色々な方法で行うけれども、結局すべては、内省へと向かうための過程に過ぎない。誰からも強要されることのない、自分自身への厳しい、絶え間ない、内省。

 

これを、設定した2日間という時間でどうシェアできるかが課題だった。結論としては、やりたかったことは2日間では足りなかったという反省はあるのだけれども、有難いことに参加者の方々にとって、有意義な時間になったというフィードバックを貰えたし、何よりも私にとっても今後の活動を続けていく一つの布石になった。

 

ワークショップのための打ち合わせを重ねていく中で、また当日のワークショップを通して、私の中でかなりしっかりとした輪郭をもって浮かび上がってきた言葉がある。

それは、「個人主義」。

何故、ベルギーではクリエーション中に口喧嘩したり、火花を飛ばしあったりしても、決定的なダメージに至らないのか。それが、人間性を否定したりするものとして受け取られないのか。(そういう場合もあるから、全部が全部とは言えないけれど)稽古の時間を抜けると、比較的ふつうに会話できたりするのか。(これも人によるから、一般化できないけど)

 

今の時点で思っているのは、これらを可能にしているのは、西洋社会の中で徹底された「個人主義」。

勿論、この「個人主義」、良い点ばかりではない。むしろ沢山の問題を抱えている。(多分私が認識するより、沢山の問題を)

ただ、外国人としてこの「個人主義」に触れて、そこから学んだことは、不思議なことに「寛容」さであることを今回は記しておきたい。そして、それが演劇をやる上で結構役に立ったりするのではないかということを。

 

 

思うに、西洋社会で育った彼ら/彼女らには、自分の範囲というものが、かなりしっかり認識できているような気がする。自分の範囲はどこからどこまでか。それを知ることで、その自分の範囲に責任を持つということ。責任(resposability)とは、応える(response)、能力(ability)である。要するに、所謂「自己意識」がかなりしっかり形成されているのだと思う。

その弊害はといえば、「実は自分だと思っていなかったものだけど自分であるもの」を排除することで生まれてくるズレ、なのだと思うけれど、今回はこの話は少し脇に置いておく。

 

彼ら/彼女らと生活していると、自分の範囲が分かっているから、他人と自分がどれくらい違うか、というのがよく分かっているなと感じる。違うのが当たり前だから、その違う相手を尊重できる。そして何より、自分を尊重出来ている。

自分の範囲が分かっているから、たまに自分の手に負えなくなるような気分に自分が陥った時に、そういう状況を「これは自分の責任ではない」枠として扱う。だから、他の誰かがそういう「食えない」状況になったときに、「まあ、そういうこともあるよね」と寛容になれたりもする。

これが下手に働くと「自分勝手」になると思うのだけど、少なくとも、私の周囲の友人は、それが他者への理解と寛容へと向かうことが多い気がする。

 

でも、たぶんこれはすごい意識したからって出来ることではない気もする。

というのは、私はこの夏、まさにこの「個人主義」でないところで機能する日本の空気に癒やされたからだ。

日本の人や空気は、良くも悪くも、それぞれの枠が明瞭ではない。どこかで、「私」と「他者」の輪郭が、ぼやんと交わっている気がする。

だから、「言わなくても分かる」という状況が生まれてくるのだと思う。

言わなくても分かる、はすごい。

本当に、言わなくても、伝わってしまうものがあったりするのだから。完璧には伝わらなくても、どこかで他者と繋がっている感覚がある。

空気を読んだり、読ませたり。確かにそこには弊害もあるけれど、やっぱりこれはすごい力なのだと改めて思う。私はベルギーで生活しているときに、とにかく、何故孤独感を常に感じるのかが分からなかった。友達はいるのに。ここに生活しているのに。なんでだろう、なんでだろうと、そればかりだった。ぐるぐるぐるぐる、ひたすら、そこはかとなく、寂しいなぁ、と。

 

きっと、ベルギーをはじめとする西欧社会では、個人の範囲が決まっていて、個人と個人が、それぞれの意識を超えた先で交わらないのではないかと想像する。

そうすることで、他者に対する「尊重」を意識的に行うことは出来る。これは、彼ら/彼女らのものすごい、それはものすごい力。

私自身、ここの友人・知人の「寛容」さにどれ程までに助けられたかは語り切れない。

演劇クリエーションの話に戻ると、どれ程までにその力が役立つか。彼ら/彼女らの中には、私の想像を超えたレベルで、自らに対する「尊重」、それを反射するように他者に対する「尊重」がある気がする。枠がしっかりしているから、どの枠で話をしているのか(稽古の場でなのか、プライベートなのか)が明確に分かれている。

 

これは、無意識のうちに私と他者の枠が交わっている日本の空気には、なかなかない技なのでないかと思う。これは、どちらに優劣があるか、とかそういう話ではない。この交わっていく感じ、交わってしまう感じは、お芝居をする上で非情に価値のある能力だと思う。

 

 

個人的には、この「個人主義」を悪い方向に内面化しないことが、今後の課題である。

つまり、自分勝手にならないこと。その境目はかなり繊細に扱う必要があるのではないか、と思う。とりあえず、それを生半可に理解した気になって、下手に浸らない。自己批判が不可欠である。

 

 

少し急いで書いたけれど、なんだか今書かないと、手の内から零れていきそうで。時間の流れの中に融けていきそうな自分がいたのでした。

ベルギーに戻って早一週間以上が過ぎた。これが私の日常なのか、と思う。

特に何の感動もない。あると言えば、物価が軒並み上がったことに、びっくりしていることくらい。こちらは、既に10度と寒いです。日本の暑さは、さすがに恋しくはならないけれど、日本に大事なものやひとは沢山。いっぱいエネルギーチャージしてきたから、私は私でまたこちらの日常を頑張ります。