二度目のクラウンスタージュ

春は苦手だ。世界は開いていくのに、体がまだ冬にいたいのか、開きたがらない。

今年のブリュッセルの春は、多くの時間は雨か灰色の空だ。それは確かに冬と変わらない色だけれど、少しだけ高いところにある。やはり春なのだ。だから、たまに晴れたりもする。

 

2月の終わりにフランス人の女優キャトリン・ジェルマンのクラウンスタージュを受けた。ベルギーの国立演劇学校を卒業すると三年間在籍できるLe Centre des Arts Séniques(略してCAS、日本語で読むと「カス」なので、なんだか間抜けというか、頼りないというか)が主催していたスタージュで、1月に自己推薦文を書き、選考をとおって選ばれた10名が集まった。

 

実は、私はナントのコンセルヴァトワールで彼女のクラウンスタージュを既に受けており、当時のあまりに素晴らしい経験が忘れられず、今回のスタージュに参加することになった。

 

学校を卒業しても、また再びこのように学べる場があるのは、有難いことだ。

仕事として演劇をしていると、本質的なことを忘れてしまうことがある。ひとつの作品を作るにあたってどうしてもついてくる緊張とか、人間関係とか、お金のこととか。それらも勿論大事な要素ではあり、それと共に作品を作ることにこそ、「現実」なるものが生まれてくるのだとは思うが、それでもそういった要素があまりにも大きな場所を占めたりすると、ふとバランスが崩れるときがある。

だから、自分自身と向き合わざる負えないクラウンという生き物を扱ったあの時間は、私にとってセラピーのような時間であった。

ただ、セラピーのようであって、セラピーではないのは、彼女の言うようにプロの俳優とは、舞台上で問題を解決しようとしないで、その問題の中に留まり、己の親密な部分を他者に明け渡すことが出来る存在であるからだろう。その「出来る」はテクニックではない。そのように自分で決めることである、と。

もし、私たちに何かの能力が備わっているとしたら、そこには何か掘り下げるべき何かがあるということだ。

その何かは、ただただ人に見せびらかしたり、自分の存在を主張するためにだけあるのではない。

クラウンが「見かけからして世界に開いている」存在であるのは、まさにその「開き」にこそ何か表現できるものがあるはずだからだ、とキャトリンは言う。

そこには掘り下げるべき何かがある。

自分の分かりやすい才能という花なのか、あまり触りたくないけれど確かにある傷なのか。そこには必ず何か掘り下げるべきものがあるのだ。

 

Se mettre dans un tel état pour rencontrer les autres

他者と出会うために、ある状態に自分を当てはめていくこと。

 

それが演技である。

その「ある状態」はテクニックであり、「自分を当てはめていく」のは私の意志であり、意識である。その意志がなければ、俳優というのは簡単に搾取されてしまう。だから、jouer(演技する・遊ぶ)のだ。

そうでもして他者と出会っていきたい、という欲望の顕れでもある。

 

自分とは違う存在になりながら、自分の奥深くに繋がり、さらに同時に目の前の人と繋がっていくこと。そのようなことは可能なのか。

 

それが演劇なのか、演技なのか分からないけれど、そんな永遠の問いを投げかけらるから、芸術なのだろう。キャトリンがスタージュ期間中に私たちに向けた言葉すべてが宝石のように光っていたのは、彼女が芸術をしているからだろう。ただの演技と、本物の演技の差はきっとここに生まれる。

本物の俳優になりたい、とずっと思ってきた。今も思っている。きっとこれからも思い続けるだろう。そこには、昨日も、今日も、明日も、もどかしくても、悲しくても嬉しくても、生きていかなければいけない時間がある。

 

オランダで過ごした秋から冬にかけての過去の時間があり、ブリュッセルに戻った冬の終わりから春にかけての今がある。郷愁にかられようが、不安に夜も眠れなくなろうが、日々は同じように過ぎていくのか。

 

 

 

 

 

 

 

演劇とはそんな疑問を問い続けられる場所なのか。