ステファン・オリヴィエとのワーク2週目。
先週まるまる一週間かけて「テーマを決め」(詳しくはコチラ→先生はマニピュレーター?! - KONDO MIZUKI'S BLOG)てから、今週は更に「どうやったら自分たちの決めたテーマについてワークを進められるか」という作業を続けた。
「どうやってテーマを決めるか」について話し合ってから、決まったテーマは
Conscience d'être manipulé(心理的操作されているという意識)
だった。
このテーマを下敷きに、演劇クリエイションを行っていく。
どうやったら、ここから演劇作品を生み出せるか。
具体的に私たちがとった選択は、壁いっぱいの模造紙にブレインストーミングを行う時間をとるということだった。
ただ、そのブレインストーミングも毎日条件を変えて行う。
一日目は、(書いている間以外は)目を閉じた状態で、ステファンが選んだ音楽をかけながら、座った状態で18分間。
二日目は、(書いている間以外は)目隠しをした状態で、クラスの子の選曲をかけて、軽く踊りながら立ったまま、36分間。
三日目は、目は開けたままで、ラヴェルのボレロのアレンジバージョンをかけて、立った状態で、60分間。ただし、ブレインストーミングの内容は、キチンと書かれている言葉と関係がなければいけない。
あるひとつのことをするのに、条件を変えていって、どうすると上手くいくのかを観察していくという方法は、INSASが得意のフェルダンクライスにも通じるやり方である。
音楽の種類によっても、
座ってるか、立っているか、
時間を変えても、
ワークへの影響は大きく違う。
何が「いい」「悪い」ではなくて、
一体何が起きているのか?
を観察していく。
更に面白かったのが、一度ブレインストーミングを終えて、直後には目を通さない。
一日おいてみてみると「意味が全然分からない」ということなんかも出てくる。
逆に言えば、時間をおいてもなお「面白い」メモもあったりする。
三日目のワークでは60分のブレインストーミングに挑戦するも
後半に差し掛かってくると大分集中力も散漫になってくる。
終わった直後に出来た図を見て
「話が脇にずれすぎていて、全然(ワークを進めるのに)役に立たないね」
と全員で苦笑い。
沢山(長く)やったから良いという訳でもない。
三日間やってみてステファンが
「さて、このブレインストーミング、全然役に立たなさそうだけど、どうやったら話が進められるんだろうねえ」
とニヤニヤ。(これも、まさか操作されている…?)
一回頭を冷やそうぜ、ということで
最後の一日はおとなしく座って、マニピュレート(心理操作)に関する個人的な話をずっとする。
自らに投げかけた質問はこの二つ。
「マニピュレートされた経験はあるか?」
「他人をマニピュレートしたことはあるか?」
「元カレに」
「前にいた学校に」
「果たして教育っていうのは、影響なのか、操作なのか」
「インフルエンサーって、マニピュレーターとも言い換えられるんじゃないの」
「他人を操作する?うん、日常的にしてるよ」
「小さい頃に、わがまま言えばお菓子買ってもらえるって分かっているわがまま言うのとかって、あれも操作だよね」
考えれば考える程、自分たちがずっと心理操作をされているんじゃないか、と疑心暗鬼になっていく。
そもそも、あるひとつの言葉を喋っているということは、ある一定の価値観の中でどうしたって縛られてしまうということだ。
「愛」という言葉を考えてみても、私は自分の恋人と、自分の両親を、とても大事に思っていて「愛してる」けれども、
その二つの愛は全然別物。
では恋人に向けては恋愛で、両親に対しては家族愛でいいではないか
と言われるとそうでもない。
私が自分の恋人に抱く愛情は、その前の恋人に抱いていた愛情とはまるで別物だ。
そして、友人が彼らの恋人に向ける愛情とはまた全然別のものであるらしいことも分かった。
でも、こんな風に考えていては、日常生活もままならないので、
私たちは、ありとあらゆるこれらの感情(或いは状態)を「愛」というひとつの言葉に大雑把に放り入れてしまう。
「幸福」に関してもそうだ。
どうやら最近の統計によると、人間関係がうまく行っていると幸福度が上がり、その結果寿命が15年延びるという。
ただ、人間関係がうまく行っているというのがどういうことなのか、私にはよく分かららず、あと寿命が延びること自体がいいことなのかもよく分からない。
大勢の人がそういっていると、そうなのかな、とも思わなくもないけれども、
マジョリティ―が「正しい」ことを言っているとも限らないのが世の常だ。
そもそも、「幸福」の定義などは国や時代によって大きく変わってくるのだ。
それは、フランスで4年間生活して日本との違いで感じたことだし、更にその後、同じフランス語を喋るベルギーに来てみてもその文化や考え方の違いがあるのだなと驚いた。
「幸福」と大雑把にまとめられて、なんともポジティブな言葉なので言及されされないけれども、そんなに一言ふたことで言い切れる「幸福」などあるのだろうか。
「幸福」という言葉を使ってしまうことで、何か別の「幸福」の形をつぶしてはいないだろうか、とも思う。
こうやって日本語を使っているだけで、やはり日本語が持つ歴史やその構造に縛られてしまうから
今こうやって考えて書いているだけでも何か漏れ出てしまうことがあるのは
百も承知なのだけど。
あとは、社会という枠組みが既に私たちに覆い被させている価値観。
それを内面化している私たち
という心理操作の闇も、とても興味がある。
これに関しては、また別の記事に書きます。
恐らくステファンと思考方法が似ているのか
関心の向け方が似ているのか
ここ最近ちょうちょう楽しいけれども
周囲はそういう人ばかりでもないみたい。
人ってこんなにも違うんだよね、と当たり前のことを感じつつも
自分がこんなにも興奮して取り込めることが目の前にあることに
ラッキー
と思って、ゆったりブルドーザーのように前進していきます。