気づけば一ヶ月以上も更新していなかった。
こんなことはこのブログを始めてから初めてのこと。
一ヶ月間何をしていたかというと、学年最後のセミナーでフランス人作家ジャン・ジュネの『女中たち』という作品をクラスメイトたちと共同でまるまる一本演出していました。
早稲田で演劇やっていた時に、演出は数回したことがあるというのに、ここにきて「あれ、稽古ってどうやるんだっけ?」という根本的な疑問に衝突。最初の数回の稽古をビクビクしながらやっていると、このセミナーを担当している演出家Armel Roussel(アルメル・ルーセル)が、こんな言葉をかけてくれた。
「演出家に対するイメージって何かもっているかもしれないけれど、何も怖がることはない。演出家はすべてを知っている人ではない。「分からない」と言うことを恐れてはいけない。沈黙を恐れてはいけない。そして、稽古の積み重ねを信頼することだ。最初からうまく行くわけなんてない。」
稽古が終わってから二人だけで話した10分だけど、この10分を経て嘘のように世界が軽くなる。
日々稽古を重ね、思考錯誤しながら、自分の俳優とのコミュニケーションをとっていく。穏やかに、楽しく、軽やかに。
そうすると、もう演出家の変な立ち位置というのはなくなって、俳優から自ら動き出して、世界を作り出していくのだなあ、と実感。
当たり前のことなんだけど、この当たり前をやるのは結構難しいのだな、と思う。
舞台上で呼吸するのが難しい、みたいなものかな。
当たり前のことを楽しく。
楽しくなければ意味がない。楽しくないと、楽しくお芝居できない。
楽しい場をいかに作り上げていくか、なのだな、とひよっこながらに思う。
発表が終わり、先日アルメルから講評があった。これ以降、少し頭を悩ましている。
悩むことはないのだけど、なんだかまた自分という存在に向き合わされているのだ。
「きみの演出家としてのmonstruosité(怪物性)をもっと掘り下げていかなければならない。今回やったのはまだ入り口だと思う。」
と言われたのだ。
因みに私の演出シーンは至って好評で、我ながらなかなかにびっくりするような視点を与えたもんだなあと思った。以前だったらやらなかっただろう、と思う演出も。(ここにはちょっと書けない…笑)ただ、最終的に見ていて思ったのは
「面白い。他の人は考えつかないアイデアだ。でも、何かが全然足りない」。
クラスメイトとも話していたのが、もらった講評もそれぞれの演出も、結局はそれぞれの人格を多かれ少なかれ反映しているよね、ということ。
アルメルに言われたことを受けて思った。いや、思い出した、という方が正しいかもしれない。
私は自分自身の心を覗くのが怖い。
自分の心の奥底にある感情や欲望に目を向けるのが怖いのだ。
自分が心の中に飼っている怪物と正面から向き合うのが怖い。
別の友人はもらった講評を受けて、自分自身を他人に見せるのが怖いということなんだと思う、と言っていた。
またある別の友人は、自分が他人に見せている自分を気にしたことがない。自分の作品も、好きなものをすべて取り込んで、人がそこに何をみるかなんて考えもしなかった。もしかしたら私は人に対して随分ひどい態度をとっているのではないか、と。
彼女たちがもっている恐怖に関しては、私は特に問題がない。
恐らく彼女たちにとっては、自分自身の心を見つめていくことに抵抗はないのだろう。
それぞれがそれぞれの場所で戦っている。
演劇の世界にありがちのイメージの「競争社会」っていうのは、だからやっぱりないんだろう。
自分自身との戦いでしかないのだ。
お芝居をしていても、最近とみに思う。
まだいける、もっといける。でも、どこかで自分を抑えている部分がある。
それは、まさに自分の怪物性を見つめるのが怖いからなのだ、と。
テクニックもテクニックと呼べるほどについてきたから、なお一層のこと怪物を探す力を抜いてしまっている感じがする。
でも本来は、テクニックは自分の怪物を表現するためのものだから、逆に言えば今もっているテクニックでは怪物を見つけられないということなのか。
それとも、怪物を見つけることでテクニック面も変わってくるのだろうか。
あといくつかテストが残っているけれども、もうすぐ一年が終わる。
まだまだ伸びしろがあり、伸ばすための時間を与えられている。
日本に帰って夏休みを過ごすまでの一ヶ月、もう少し成長していきたいな、と思う。