このブログでは散々に「喜び」の話をしてきた。それは、私がまだナントの演劇学校にいたときにその「喜び」(フランス語だとplaisir。英語だとpleasure。)という言葉が授業内はもちろん、日常会話でも連発していたからだと思う。
それが、ここのところたんと言わなくなってしまった。よく考えてみればこの言葉を耳に挟みさえしないかもしれない。
その代わりに、別の「喜び」の方はよく出てくる。
フランス語で言うとjoie、英語だとjoyだ。
そして、私の体内成分もplaisirからjoieに変わってきているような気がする。
少し話は逸れるが、ベルギーという国は公用語が2か国語ある。フランス語と、フラマン語だ。フラマン語はオランダ語の方言のひとつらしく、フランダースの犬のネロなんかが(恐らく)使っていた言葉。あとは本当に一部だけドイツ語を使う地域もあるらしい。
フランダース地方(フラマン語を使う地方)においては、フラマン語自体がひとつの方言である上に、その中で更に場所によって随分言葉が変わってくるらしい。
フランス語圏といえば、フランス人からしてみると訛りのあるフランス語で、観察していると声の質が少し違うので、フランス語ネイティブからしてみると大分違って聞こえるのだろう。なんていうか、ベルギー人のフランス語は少しゆっくり舟に揺られて歌ってるようなフランス語なのだ。
それに加え、ブリュッセルはヨーロッパ連合本部のある都市。ヨーロッパ中から人がやってくる。道を歩けば、フランス語やフラマン語以外にも様々な言語が聞こえてくる。
フランダース地方の人が話すフランス語。色々な国の人が話すフランス語。
「生粋のフランス人」からしてみたら、訛りのあるベルギーのフランス語。(これは嫌味)
そもそも「訛り」があることが当たり前なのだから、私の日本語訛りなんて、全然オッケーだったり、するのかもしれない。
そんな土地で育まれる言葉に対する意識は、フランスのそれとは違う。らしい。
これはもう実感としては、私は外国人なので分からないけれども、そうなのだ、と学校の先生に言われたし、あとはINSASの学生と話していても感じる。INSASにはフランス人学生がかなり多いけど、この人たちの中には「フランス演劇」に違和感を感じてベルギーにやってくる人が多い。(あとは、すごい面白い俳優なのにフランスの国立演劇学校には一度も受からなかった人とか。なんだか色々物語っていて興味深い…)
さて、最初の話題に戻ると、このplaisirという言葉を聞かなくなったというのには、この言葉に対する意識の違いにあるのではないか、と思う。
ベルギー人がplaisirを感じないわけではない。ただ、フランス人が感じる程度には感じないし、それとは違った感覚で「喜び」というものが出てくるのではないかな、という私の仮定。
plaisir(pleasure)とjoie(joy)にどう違いがあるかは、私には正確には分からないのだけど、私個人の俳優としての感覚は
plaisirはとくとく深い海の底に、joieはきらきらと軽やかに太陽に向かって飛んでいくような、そんな違いがある。
そういうjoieの中でお芝居する感覚というのは、やはりplaisirとは全然違う。
具体的な例はといえば、宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」という映画があるけれども、joieはポニョでplaisirはポニョのお母さんのグランママレという感じ。(分かりづらいか…)
使う言葉が違うというだけで、ここまで色々と変わってくるものなのか。
いや、使う言葉が違うということは、そこまで来るのに辿ってきた歴史やその中で生きてきた人間の姿を担う大きな事象なのかもしれない。
私の近藤瑞季史で言えば、このjoieの中でお芝居できるようになったのは一体何に起因するのか。
ベルギーにきたこと?
憧れの国立演劇学校にきて、自信がついたこと?
演出の勉強も面白くなって、演出もいつか自分でやってみたいかもと胸をときめかせたりしていること?
でも、日本語でもお芝居を本格的にしてみたくなったこと?
そのどれもで、そのどれでもない、ような気がする。
そのどれもが複雑に絡み合って、今にある。
今まで時間をかけて辿ってきたどれひとつ欠いても、今私が感じているjoieにはたどり着けなかったのではないだろうか。
思えば、joieの軽やかさは、深い海の底まで行って大きくジャンプできた、その結果の感覚なのかもしれない。
今はjoieの軽やかさで、どこまで飛べるかが楽しみ。
この軽やかさで、やりたいことをひとつ言おう。ひとつだけ。
ベルギーでサーカスと演劇を融合したカンパニーを作り、日本で女優の仕事をしていきたい。
きゃあ、と恥ずかしさで飛んでいきたい気分。