昨日、友人とフロリアン・ヘルケン・フォン・ドナースマルク監督の映画Werk ohne autor(英題はNever Look Away)を観てきた。
「善き人のためのソナタ」を監督した人の作品で、この作品はとても好きなのだけどその監督の作品だとは知らずに鑑賞。
英語字幕の映画予告をyoutubeにて発見。
存命中のドイツの芸術家であるゲオハルト・リヒターの人生に基づいた作品だというけれど、主人公の名前は違うので、どこまでが忠実なのかは分からない。
ナチス政権下に少年時代を過ごすカート。戦争が終わって、美術学校に入り、恋人と出会い結婚し、貧しい東から西ドイツへと移動して、新たな美術学校で自分の追求すべき芸術とは何かと悩むなかで、才能が花開いていく。
大まかなあらすじはこうもシンプル。でも一晩寝てみても、まだいくつものシーンを思い出す。
決していかにも「芸術家」らしい人物としては描かれていないカート。
それを踏まえた上でなのだけど、
「(これは)僕が美しいと思わないから、美しくない」と彼が断言するシーンがある。
それに対して彼の友人が「お前はいつも、ich, ich, ich(僕は、僕は、僕は)だな」と皮肉に言い返す。
西ドイツに移ってデュッセルドルフ美術大学に入るカートだけれども、何を作ればいいか分からない。周りのように「現代アート」をやってみる。でも、違和感はぬぐえない。
自分を見失うカートに、彼の才能に目を付けた教師が放つ言葉がある。
「自分が美しいと思うものを表現しなさい」と言う。
Ich, ich, ich(僕は、僕は、僕は)だ、と。
これをナルシシズムだと受け取る人も多いだろうと思う。
というか、ナルシシズムそのものなのかもしれない。
だけど、私は思うのだけど、本当に美しいものを追求しようとしたら、
それは自分の中を掘り下げていく作業を通してしか出来ないのではないだろうか。
それは他人との比較の中での「私」という存在を見つめるのでなく、
「私」という孤独を、ただひたすらに、見つめていく。
これをナルシシズムと社会が見るかどうか、それを少しは分かっていないといけないのだろうけれど、
本物の芸術家とはこの孤独の私という存在なのだと、私は思う。
先日、あるパフォーマンス作品をみた。
途中、目を閉じてください、といわれ
「あなたはあなた自身に誠実ですか?」
と訊かれた。
「違うな」
と、自分自身が即答した。
といっても、私自身、理性では誠実なのだ。
もちろん、それはそれである種の誠実なのだ。
ただ、私はどうしてもナルシストなので、誠実さという曖昧なものを更に自分自身の中で問い続けてしまいたくなる。「違う」という声が聞こえたからだ。答えにたどり着くのかは、誰も分からないのに。
映画の中でひたすら繰り返されるセリフがある。
「すべての美しいものは本物である」
或いは
「すべての本物は美しい」
どっちだったか忘れてしまった。
どっちでもいいのだろうか。
本物から目を背けてはいけない(Never look away)と、精神病院に送られるカートの叔母が別れ際に彼に言う。
本物をみることでどんなに痛い思いをしたとしても。