サルじゃなくて、人間です!

全くもってフランスのお役所仕事はひどいと思っていたが、そんなのは幻想、と思わせる程ベルギーのお役所仕事はもっとひどい。

今は、散々に困らされちゅう。

この間は移民局に電話して、向こうの言っている意味が分からないので(私のせいでなく、向こうのせい)「いやいや、意味が分かりません」と三回言ったら、電話を切られた。

腹立たしくも、どうしても必要な情報なので、今度はフランス人の友人を横に電話をかける。30分間待ったあげく、電話口からはまた同じ文句。そこで、友人が「私にも、意味が不明なんですけれども」というと、なんとしっかり返答するではないか。「意味が不明です」という同じ言葉を発したにも関わらず。

 

そうか、これが外国に住むということか、と改めて実感。こちらに住んで4年半、遅い気づきなのか。いや、そもそも国籍係わらずこんな対応あってはいけない。

全くもって腹立たしい。

 

しかも、二週間後にはプラハで映画の撮影があるので、もう死ぬほど焦っている。焦っても仕方ないのだけど。だって、あちらの受付時間は9時半から12時までなのだから。焦っても、電話さえかけられない。ひどい話ではないか。

 

かの有名な作家の夏目漱石はイギリス滞在中に神経衰弱になったというが、同じ外国に暮らす人間としてはよく理解できる。その上、漱石の時代なんかヨーロッパ大陸に一体幾人のアジア人がいたか、というような環境だったろう。彼の苦労は私のそれのうん十倍だったに違いない。

漱石はイギリス滞在中に、ショーウィンドウに映る歩く自分の姿をみて「誰だあのサルは」と思ったらしいが、全くもって私もそうだった。

しかし、それは私が持つ(漱石も恐らく持っていたであろう)西欧人に対するコンプレックスからくるものであって(ヨーロッパに憧れる日本人なんて大抵そんなもんだと思う。だって、憧れ、だもの)私たちが実際にサルに似ているわけではない。

今はだいぶそれからは抜け出して、私は私でまあこんなもんでいいんじゃないか、と思い始めている。

 

いやしかし、そう思えるようになるのに実に数年はかかった。

 

こちらの友人が、私の恋人の長髪をみて「なんて綺麗な髪だろう」と感動していた。

黒いから綺麗でもなく、長いから綺麗でもなく、ただ単純に「綺麗だ」と思うこと。

美しいものは、美しい。

そう思える心持であるといいと思う。

美しい髪は、何色だろうと美しい。肌もそうだ。目の色もそうだ。手足の長さもそうだ。声の質もそうだ。

美しいものは、美しい。比較の中でなく、絶対的に美しい。

比較の中で生まれる外国人という意識に留まり、だからきちんと話を聞かない、でなくて普通に話せればいいのに。先入観なく。こちとら普通の人間である。

 

やはり難しいのだろうか。

先日、5ユーロで買った「シャワー券」を(私が買ったこのチケットで、ホームレスがブリュッセルの街の移動式の浴場に行けるという券。ホームレスのひとたちのためのプロジェクト)実際にホームレスの人に自ら渡した時に、感謝の印に握手を求められた。しかし、私は思わず匂いを放つ彼の手を、迷いなく握れなかった。

実際に触れたその手は、蝋が塗ってあるかのような質感で、今でもその感触を覚えている。私自身にも「自分とは異質の者」にまだまだ先入観がある、と思い知らされた瞬間だった。

 

でも、そこに留まっていてはいけない。

留まらないために、自ら自らに質問を投げかけるために、芸術を志しているのだ、私は。

自分自身のために。そして、ある一定の考えの内に留まる人を、つっつくために。

 

移民局だから、あまりに多くの人を相手にするから、と言って、大胆にも電話を切るのはやめてほしい。

間違ってる。

私も、しっかり差し出された感謝の手は、どんなであろうと、迷いなく握り返したい。

そうでなければ間違っている、と私は思う。

 

私はサルでもなければ、怯えている外国人でもない。

私は日本人で、アジア人で、私というこういう顔をしたひとつの生物なのですから。

 

 

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無邪気に肉まん頬張ってるけど、全然自分のことサルだって思わないですよ、わたし。


photo by Shoichi Hanaue