12月から稽古していたシェイクスピアのモノローグセミナーが木曜日に終わった。
(L'INSASでは、それぞれの授業のことをセミナーという。ラテン語で「苗床」を意味するseminariumが語源だという。何かを温め学んで次に進もう、っていう意気込みが感じられてなんだか好きだな、と思う)
私はリチャード三世のモノローグを選択。
シーンとしては、王位を得るためにありとあらゆる残虐な行為をしてきたリチャード三世が、王位奪還のための戦争で窮地に立たされ、夜に寝ている最中にうなされているという背景。
具体的にどう稽古をしていったかというと、先週話したシェイキングなんかもそうなのだけど、モノローグ自体は、壁を押してそこからマットレスの山に倒れこむ(下の写真のような感じ)、という動きを基本にして稽古していく。
演出上マットレスを使うのではなく、あくまでも俳優の訓練としての道具に過ぎないのだけれども、これがまた面白い。
壁を押す、と言ったけれども、使うのは壁を押したときの力ではなくて、「壁から返ってきた力」。
マットレスの山は、はしゃぎたくなるほど柔らかいのに、いざそこでセリフを言ってみようとすると、変な力が入ってしまう。
うまく力を抜いた状態で、激しいセリフを言うのは、実は結構難しいのだ。
ナントのコンセルヴァトワールの卒業試験の際に、審査員のひとりであった演出家のジョン=イヴ・リュフ(Jean-Yves Ruf)に言われたことを思い出す。
「バイオリンやトランペット、ジャズの演奏なんかを聴いていると分かる。(バイオリンの場合)高音を出そうとすればするほど、ドラマチックな音になればなるほど、絃を強くこすってはいけない。楽器を自由にするんだ。」
大切なことだから、より心を込めて言いたいのに、力強く言いたいのに
そういうものこそ寧ろ自由にして「手放す」必要がある、ということだろうか。
少し考えてみると、恋愛に随分と似ているのではないかと思う。
好きな人を追いかけてばかりいると、向こうは愛想をつかしてしまう。
連絡は取らない時にこそ、向こうからふとやってくる。
好きだから、一生懸命に心を注いでいきたいけれども、ぐわーっとこちらから向かっていっては、相手の息が詰まってしまう。
ここでも「手放す」。
そうやって手放した時に、こちらにやってきたら、それこそきっと、素直に好き会える人だと個人的には思う。
お芝居の話に戻ると(はは笑)
リチャード三世の狂気的なセリフを坂道を全力で下るようにどんどん言っていったときに、最後ふっと踏み込んで地面から両足を離してみる。
そうするとセリフは勝手に天に向かうかのように「ぽーん」と浮き上がる。
自らで浮きあげるのでなくて、浮き上がる。
手放したときにしか、この「ぽーん」のひとっとびは訪れない。
壁を押した力でなくて、壁に押された力でセリフを言う、というのもそういうことなのだろうか。
セリフを、役を、自分のものでなくしていく。
こんなこと言うと、一般的に言われていることと違って誰かに怒られたりするのかな笑
でも、そうした時に自分では思ってもみなかった景色が見えたりする、と私は思う。
残酷な殺人鬼のリチャード三世の台詞に、ふと心が奪われてしまったりするのだから、不思議だ。(彼が孤独を嘆いているところであって、残虐なシーンではないです、念のため)
さっき、ようやく是枝裕和監督の「万引き家族」を観てきた。
やっぱり演劇と映画ではお芝居が大分違うけど、それでも核の部分はきっと変わらないのだろうな、と思った。
まさに「手放す」感じ。
手放して、手放した先に一体なにが待っているのかは、私はまだ青二才なので分からない。