良い匂いと良い音の関係

私の嗅覚は常人よりも鋭い。

と思う。

一度も数値化して測ってもらったことはないが、昔から匂いに非常に敏感なのはそうだと思う。ワインなどを飲んだ時も、言語化して「これはこの(別のものの)匂いに近い」ということを言い当てるのが比較的に得意だ。

 

そんなことを、先日リヨン近郊の田舎で歌のスタージュでの講師エリックに話すと、「それは歌を歌うには素晴らしい素質だ」と言われた。

どうして素晴らしいかというと、どうやら、歌を歌う時に口を開けた感じと、何かのものの匂いを嗅ぐときの口を開けた感じ、もっといえば鼻の奥がスッと通る感じ、この二つに共通点があるという。

ふうん、とその時は何となく聞いていたのだが、

「あ、この音、美味しい、と感じられたらいい」

スタージュ中、そう彼が何度も言うを聞いていたら、何となく分かった気がした。

いい感じに声が出るとき、確かに鼻の奥に抜けるような感覚がある。まだ、音の匂いと、私の嗅覚は直接には結びついていないのだけど、まあそれは訓練がもう少し必要そう。

 

「俳優っていうのは、生きることを愛していないとね」

なんてたまに言われたりして、生きることを愛するとは?なんて思いながら、「そうねえ」と表面ではニコニコしていたのだけど、彼らの言う「生きるを愛する」とは例えばこの匂いを捉える行為のことなのだろう。

フランス人の方が、芸術に優れている、とは一度も思ったことないけど、芸術へのアクセスはより多いのかもしれない。食べること大好きだし。恋愛も大好きだし。

人生の断片に、美しい音やら色、感触などへの扉が散らばっているのかもしれない。

そしてそういったひとつひとつが、

「ああ、ロミオ、ロミオどうしてあなたはロミオなの」 の、「ああ」へ結びついているのかもしれない。(シェイクスピアはイギリスだけどさ。私はこの作品が好きなんだよう笑)

 

スタージュ中に、宿泊先の管理人であり、今はヨガの先生をやっているニュッシュ(彼女はフランスのコンテンポラリーダンス黄金時代のスターだったという)によるヨガの時間が毎朝一時間程度設けられていた。

彼女のヨガは、所謂人々が想像するようなヨガではなく、本当に小さな動きで体に働きかけていくようなものなのだけれども、私はその小さな動きに最終日の朝に思いがけず涙してしまった。

勿論、肩が下がったなあとか身体に現れる変化も感じられたのだけど、それと同時になんだか胸がいっぱいになってしまったのだ。

思う存分泣いた気がする。

 

スタージュが終わって彼女と少しだけ話した。

「あなたの体はとても感受性が高い」と言われた。

そして、それはとてもいいことだと言われた。

そうやって人とコミュニケーションをとればいいのだ、と。

自分の身体を通して学ぶ様々な知識は、これから物事を観察するうえでの杓子定規になる。だから他の人が見えなかったり感じなかったりする事象や世界を感じてもいいのだ、と。

 

涙を流したからなのか。

さあ、今はもう次のステップへ、という気持ちだ。

次のステップが何かよく分からないけれども、さあ、新しいことよどんとこい、という意気込みだ。

もう秋だねえ、というと「瑞季は気が早い!」と言われるけれども、それでも私は感じる秋に向かって。

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こーんなところで5日間も歌い続けた。贅沢。