「俳優」の「プレゼン力」

来年度に向けての学業続行のために望みをかけていた奨学金に落ちた。

けれども今、全然諦める気になれない。

むしろ、そんなことで見切りを付けられると思うなよ、と思った。偉そうに。

こういうのを踏ん切りが悪いと言うのかもしれない。

でも、何としてでも、どうにかしてやる、という気持ちの方が強いのだ。

「望みをかけていた」と思っていたけど、全然、そんなことに望みはかけていなかったということに気づいただけだ。

 

先ほど友人と電話して、

「いま、あなたは将来に向けて目が行き過ぎて、今まで何をやってきたか、そしてその結果、今自分が何をやっているかを理解していない。

自分の引き出しには、一体何が入っているのかを、もう一度整理してごらん。」

という言葉をもらった。

 

その言葉を受けて、細かく整理する前に思ったことを、書いておかなければと思ったので、また衝動に駆られてパソコンに向かっている。

 

今まで、やってきたことはやってきた。

言葉の芸術である演劇のなかで、フランス語を母国語としない日本人の私は、それなりに苦労もしながら、真面目に、自分が出来る限りの誠実さをもって、一所懸命にやってきたつもりだ。

 

でも、自分の言葉で、過不足なくそれを人に説明できるだろうか、と問われるとどうだろう。それは、残念ながら、大きなノー。

そしてそれが、今回の結果なのだろう。

力はあるのに、それを自分でプレゼンテーションをしていく力がなかったのだ。

 

少し話は逸れるが、

フランス語では、演劇の上演を「représentation」という。カタカナ表記だと、リプリゼンテーション。

re(リの部分)は繰り返すという意味だから、リプリゼンテーションは、プレゼンテーションを繰り返す、という意味になる。

プレゼンテーションを繰り返していくと、「表現する」とか「上演」とか、そういう事象として浮き上がってくる、といった具合だろうか。

 

じゃあ、プレゼンテーションって何?

と考えると、

プレゼントの名詞化したものということが綴りから分かる。

辞書で調べれば、動詞、名詞、そして(フランス語の場合だと)形容詞にまで及ぶ、比較的多岐にわたる日本語での意味が出てくる。

動詞を名詞化するのが一般的な考え方だろう。

ただ、私がこの言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは

「いま、現在」という名詞だ。

 

名詞を名詞化していく。

これはどういうことなのか。

全くアカデミックでも何でもないけれども、「現在」という言葉を用いて考えてみると、なんだかすんなりと納得できる気が自分ではしたので、ここに記しておきたい。

 

「présent(現在)」とは何だろか。

「現在」というその言葉は、どうしたって常に目の前を流れ去っていくものである気がしてしまう。

物や、出来事ではない。今、この瞬間も、「現在」は流れ、「過去」になっていく。そして、その「過去」になった私からは、「現在」の私は「未来」を生きていく。でも、その「未来」の実は「現在」。

そう考えていくと、「現在」も「過去」も「未来」も常に流れていくものだと言える。この三つのどれにも、実態がない。これですよ、といって、ポンっと目の前に目に見える形で表すことができないのだ。

「過去」も「現在」も「未来」も、あってないようなものだ。

 

「現在」というのは、川に流れる水のようなものかもしれないなぁ、と思う。

掴もうと思って手を伸ばすと、掴もうと思っていた水は、数メートル先にいってしまっているだろう。

ようやく手を伸ばした先にある水も、そう簡単には手のひらに収まってくれない。

指の間からするすると逃げこぼれていってしまう。

 

やはり、そのイメージは「現在」に重なってしまう。

「現在」とは、川の水のように捉えどころのないものなのかもしれない。

だからなのか。その捉えどころのない「現在」を名詞化していくというのは、個人的にとてもしっくりくる。

 

「現在」を捉えようとするその試み。

川の水を、手のひらで掬おうとする、その動き。

その手の動き、それこそが「présentation(プレゼンテーション)」なのかもしれない。

 

そして、何度も、何度でも、川の水を掬おうとしてみる。

それが「représentation(リプリゼンテーション)」なのかも。

「現在」を名詞化していく、その行為を繰り返した先に「上演」やら「表現」やらが経ち現れる。

「現在」は手には取りにくいかもしれないけれども、現実にあることは確か。

「現在」を描写して、丁寧に扱って考えていく作業が「表現」なのかもしれないなぁ、とぼんやりと思う。

 

川の水を手のひらで掬うのが難しいように、「現在」を捉えるのだって至難の業だ。

だけど「présentation(プレゼンテーション)」をという過程を通らなければ、「représentation(リプリゼンテーション)」だって出来ないはずではないか。

 

「現在」を名詞化していく力。そんな風に考えるとややこしいけど、先人たちは素晴らしい言葉を既に生み出してくれている。

「プレゼン力」

自分でもこの言葉を打ってみて、違和感満載だけれども。自分とは縁遠い言葉である気がするけれども、でも分かりやすいね笑

 

こうやって考えると、やはり、俳優の仕事は、他の所謂「プレゼン力」が求められる仕事とそうそう変わらないのかもしれないな、と思う。

あまり、表現やら芸術やら、そういった枠組みに囚われないでいたい。

 

「présentation(プレゼンテーション)」の力が圧倒的に足りない私は、

普段は「演劇以外の力はどーだっていいんだー」と少々高を括っていたが、

そもそも「présentation(プレゼンテーション)」が出来ないと「représentation(リプリゼンテーション)」も出来ないことに気づく。

それは、まずいのじゃない、と。お芝居したいんだから、私は。

 

 

ちゃんと俳優も「プレゼン力」なるものを付けていかなければ、いけないのですね笑

ここまできて、こんな単純なことに気づくとは。

ここまでこないと、こんなことにも気付かないのだ。

 

ある人に、

「瑞季ちゃんは、ひとつひとつを納得しながらでないと前に進めないものね」

と言われたけど、ああ、そういうこと。ああ、ここでも?って感じ笑

 

亀のように歩みは遅いけど、進んでいることは確かだから、許してね。

 

川の写真ないかなーって思ったら、気づいたら、フランスの川(ロワール川、ローヌ川)、ドイツの川(ライン川)、そしてアイスランドの川(名前は知らない。多分ない。)の写真があった。色んな所にいったな、と思いつつ、日本の川の写真がひとつもないことに気づいた。日本の川の水も、手に掬いたいんだけどね。

 

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