あいだにいること。

日本で過ごしていると、フランスでフランス語を話して生活していた自分が嘘のように思える。

遠いあの国は、今やほぼ存在していないに等しい。なんて薄情。

フランスを一歩出れば、もうフランス的要素はわたしから抜けてしまう。すごい残念でもある。

じゃあ、日本にいる私は、日本の地に立っているかといえば、それもまた違い、漂っている。

どこにいたって漂っていることにかわりはない。

それは少し、寂しい。

 

昨日、去年も一日だけ参加したヨガ教室に行ってきた。

先生の、やわらかい在り方と、その言葉に、「ああ、フランス語やってよかったなあ」と思う。

というのも、私は日本語、フランス語、英語の三つしか知らないけれど、それぞれの言語にはそれぞれの世界があると思うのだ。

その言語でつくりだせる雰囲気がある。それは単純に、それぞれの言葉のもつ音がそうさせるのかもしれないけれども、内容も、日本語でしか話せない内容があったり、フランス語だと話しやすい内容があったりする。

昨日のヨガ教室のあのやわらかな感じは、やはり私にとっては、日本語でしか触れられない場所なのだ。これは他の言語に長期間触れてみないと分からないものであったと思う。

 

 

 

人間のからだって、触れるだけで繋がってくるらしい。

手を足で触ったらそこは繋がって、お互いに影響を及ぼす。そこに気が通る。

それは自分のでも、他者のからだでも同じで、これはよく言うことかもしれないけれども、触ることで細胞レベルで交わっていく。

私が誰かに触れば、私の気は相手に通る。

「なので、相手のからだに触るときは敬意をもって触りましょう。」

 

 

日本語で、個人的にかもしれないけれども、話しにくいことのひとつに性の話がある。

こういうことが問題だ、とか、こういうことがしてみたい、とか。そういうことって日本語でほとんど話したことがなかった。

でも、フランス人がそれが好きなのかなんなのか、フランスの友人とはよく話す。(おそらく好きなんだろう。あと、私たちが互いにあまりに開けている、というのもある)(あと、私は男の子たちのそういう話を聞くのが好きだ。面白い)

そんな彼らと一緒にいることで、私は他者のからだに触れることの大切さを思い知った。

それは、言葉でのコミュニケーションと同様に大事なこと。息をするように、大事なこと。

たぶん彼らとの交流がなかったら、ずっと軽んじていただろうこと。

 

人のからだに触るのは、すごいことだ。

以前の私は、誰かに触れるのが怖かった。

学校にはダンスの授業が週4時間あるけれども、それは飽くまで俳優のためのダンスの授業なので、主な目的は振りやテクニックを学ぶことよりも、自分のからだを解放すること、より自由に動かせるようになることにある。

授業中、時に誰かとペアを組んでからだを動かすことがあるが、一年目の私は、相手のからだに触っていく勇気も、相手に触られたいという気持ちもなかった。ていうか、むしろ触ってほしくなかった。

二年目に入って、おそらく少しずつ精神面での変化があったのだろう。

いまの私は、積極的に他人に触りたいとまで思うほどに変わった。

 

先学期、ダンスの授業でこんなことがあった、

先生とふたりで踊ったとき、

手が先生のからだに吸いついっていったのだ。

先生の手も私が触ってほしい部分に触れる。

その感覚は、とてもあたたかく柔かな膜のようなもののなかにいるような、自分がその膜そのもののような。

ちょっと勇気をだして言えば、心地よかった、のだ。

 

こんな、先生と、からだが触れて気持ち良かったです、って、やばい話に聞こえるかもしれないけれど。でも、たぶん以前の私は、こんなやばそうな話を体験していない私は、もっと他人のからだに対して乱暴であったし、自分に対しても乱暴だったと思う。

今は、自分にはからだがあって、それは他の人もそうで、そのからだっていうのは、とても尊いものなのだということが、わかるのだ。

 

でもこれって、すごい性的な話にも思えるし、全然そうじゃない気もする。

だって、やっぱりからだが通じた時って、心が通じた時のように、感動するし。

涙がでるようなこともあるし。

心と体はつながっていて、別のものであるようで、同じもので、同じものであるようで、やはり別もの。

どちらも性的であって、性的でない。

 

 

とまあ、そんな風に、少しずつ自分のからだや心を解放できるようになってきた私は、

それでも未だに自らをコントロールしていたい気持ちを放つことが苦手だ。

少しずつ理解しはじめてきて、ジュリエットを演じることではその入り口に立ったと思う。(詳細→

ジュリエットを終えた先に。 - 踏み台における足踏みの軌跡。

でも、自分をコントロールの外に比較的簡単に投げ出してしまえる友人たちをみてると、何故、と思う。何故、私はこれにこんなに時間がかかるの、と。

理由は分かってる。

ただただ、自分を解き放つのが怖い。

 

それをヨガの先生に言ったらこんな答えが返ってきた。

「それぞれにそれぞれのタイミングもあるから、無理しなくていいんですよ。その時期が来ないのは、まだまだその人にとって不安や恐怖をためておく必要があったりするってこともあるから。それから、そういう風に恐怖に思ってしまう自分も、大切にしてあげるのも大事です。そういう、恐怖を背負ってしまう自分や、生まれつき背負ってきたものとか、そういうのを見つめてあげることもとても大事なことだと思います。」

 

あ、日本語で触れた境界、と思った。

追いやるんでなくて、ただそこにあることを見つめること。

怖いという気持ちは、嫌なものに感じられるかもしれないけれども、それも私を形作るひとつであって、その私の中には他にもいろいろなものが混じっていたりする。喜びとか

そう、不安や恐怖は、喜びの裏地にあったりする。

違うもののようで似ているもののような。

 

誰かのからだに触る時、何かひとつになった、という感覚があるが、

あんなものは嘘なのかもしれない。だって、ひとつになれるわけない。

いや、でも、やはり私が相手に触れると、わたしたちのからだは繋がる。細胞レベルで。という風に言われたし、なるほどそんな感覚もする。

でも、もっと細かくみていけば、実は分子と分子の間は無だから、絶対に触れることなんてできないらしいというのも、聞いたことがある。

でも、やっぱり、もしかしたら、ひとつになっているかも。分子なんて、目に見えないし。目には見えないけど、あ、ひとつになった、という感覚があるから、やっぱりひとつになったのかも。

どっちか分からないけど。

ひとつになったようで、なってない。でも、なってる。

性的なようで、性的でない。でもやっぱり性的。

不安や恐怖に感じられるけど、次の瞬間には喜びになったりする、けど怖い気持ちは続く。

どっちか分からないけど、

この、どっちつかず。この、あいだ、が大事なんじゃないかな。

そうなのかもね、っていう、可能性。そして軽やかさ。

 

だから、日本にいても浮いてるようだけど、ちゃんと日本にいるし、

フランスに戻ったら、やっぱりいつまでも外国人だけど、向こうできちんと生活できるし。

大した話じゃないんだけどね、やっぱり大したことしてるんだなあ、ってたまに思ったりしてしまう、そういう風に一年分の自分を「お前よくやったなぁ」と誉めてあげられる時間を、今はまったりと過ごしています。