来週の水曜と木曜に、ナントにある公立劇場で、コンセルヴァトワールナントの契約アーティストであるNathalie Béasseのクリエーションの発表がある。
なので、今週は朝から晩までみんなで稽古、稽古。
10人の俳優と7人のミュージシャンと。
7人とも、去年のポールクローデルのクリエーション(当時のブログ記事→
対話の方法。世界は広い。 - 踏み台における足踏みの軌跡。)
から知り合いだけど、ここのところずっと一緒にいるからどんどん仲良くなってきている。やはり、稽古場の雰囲気は大事だ。
しかし、17人の人間がいる空間というのは、すごい。ちょっととんでもない量のエネルギーが飛び交っている。
そうそう。
月曜日には、私は一人だけパリの国立コンセルヴァトワールのコンクールを受けてきたけど、
もうこんなの体験したことないっていうくらい最悪のコンクールで
ちょっと今まで色んな意味で調子に乗っていたのかもしれないな、と反省。
私は、学校のみんなの折り紙付きの自己中だけれども、せめて演劇には謙虚でありたい。
コンクールを終えて、そういう風に思った。
コンクール直後は、これでもかというくらい悲劇のヒロインを演じさせてもらって(メトロの駅でびんびん泣いたり)
相手役のためについてきてくれた友人たちは、ほとほとあきれ返ってたけれど
少し自分を取り戻した気がする。
少し前のブログで書いた、「たかが演劇」は、確かにそうなんだけど、
私はやっぱり病的に素直で、一度信じたらそれを疑わずに突き進んでしまう質の人間なのは変わらないのだ。
ひとつひとつに真剣勝負で向き合っていけるという性質は捨てなくていい、私の一部。というか、結局捨てられない。
何事にも一所懸命な私と、たかが演劇と言い放ってしまえる私の先には
いったいどんな私がいるのだろう。
今は、それを探すことに向かって進んでいきたいと思う。
さて、自分のことは少しおいておいて、
演劇のことを話そう。
現在のクリエーションにおいて、クラス全体が難しいと感じている演出家の求めるセリフの言い方をどう自分の中で消化していくかという問題について。
演出家にもいろいろあるが、ナタリーはセリフのイントネーションを直すタイプの人だ。
なるべくシンプルにシンプルに。歌わないように。「演技」が入らないように。
随分前からナタリーの好みを知っている私たちは、そうしようと努力する。
なるべくシンプルにシンプルに。
「見た目」から入っていくのだ。
この作業はなかなか難しい。
なぜなら私たちが普段やっているのは、自分の内側を外側に出していくという真逆の作業だから。
だから、どうしても制限されている感が出てしまって、セリフを言う喜びにまでは到達しない。
どこで読んだか忘れたけれども、アメリカ人の俳優と日本人の俳優の違いを説明した文章を読んだことがある。
演出家がA地点からB地点へ移動するように指示を出したときに、アメリカ人俳優はまず「どうしてか?」を演出家に訊いて、それで理由が分かったうえで移動する。
それに対して、日本人俳優は「はい、わかりました」とA地点からB地点に移動する。これだけだと日本人の俳優が能無しのように見えるが、実はそうでもない。
どういうことかというと、日本人のほうは移動しながらその理由を体感していく、ということなのだ。
理由を理解したうえで体が動く俳優と、体を動かすことで理由を見つけていく俳優。
どちらが優れているという話でなくて、ただそういうことが実際にあるのだ、というのがこの話の最高に面白いところだろ思う。
このどちらもできたら相当な強みになるのではないだろうか?
自分の身体のうちで起こることと外で起こることをどのように結び付けていくか。
ここに今回のナタリーと私たちの間にある乗り越えるべきものがある気がする。
そして、その見た目と自分の身体の内側をなるべく早く繋げていくこと、そこにある種のプロ的なものが垣間見えるのではないか、と思う。
演出家が与えた器の中に、自ら水をはって、自由に泳いでいく方法を探している。
それで、金魚みたいになれたら最高だ。3秒後には忘れているから。
舞台上で経験した嬉しいことも悲しいことも全部忘れて、また新たに体験できたら、それはそれですごく素敵だろう。
残念ながら、私の脳みそはもう少し長いスパンで記憶していくから、それとともにやっていくしかないのだけど。
今週、舞台に立つ。
昨日、初めて劇場入りして、舞台の上に立ってみたけれども、感動して涙が出そうになった。
色々あるんだけれども、私の生きる場所はここだ、と本能的に思った。
色々あるんだけれども、演劇があるから私は大丈夫。