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赤、白、黒の化粧の下に。

今週は、ピエロになって生きました。

女優であり、クラウン俳優としても有名なキャサリン・ジェルマンとのスタージュ。

 

クラウン、日本で言うピエロは、フランスではひとつの演劇の形としてその地位を確立している分野らしく、多くの国立演劇学校でもスタージュとして組み込まれている。クラウン専門の学校もあるらしい。

 

そんなクラウン文化から完璧に外れている私にとって、クラウンは本当に「未知のもの」。

初めて出会うクラウン、その言葉、その世界。

受け取る量があまりにも多く、ノートにメモするペンが追いつかない。感じたこと、見たこと、キャサリンが言ったこと、全部ぜんぶ書き残したかった。

それほどまでに、クラウンは魅力的だった。

ひとつの哲学だ、と思った。

 

夏休み前にキャサリンは、私たちに手紙を送ってきた。以下、その一部抜粋である。

「クラウンは、登場人物ではありません。何者でもありません。

では、どんな「人」だといえるでしょうか?

クラウンは、人間になりたい。人間の生活の中に入り込みたい。

彼はこの欲望からできていると言えるでしょう。

その彼の欲望、生命の鼓動が、私たち人間の奥底に触れ、感動させ、笑わせるのです。」

 

この数行が、実際にやると非常に複雑だった。

 

スタージュの一週間、私たちは毎日衣装に着替え、化粧をしてまさに「大変身」をした。それこそ、もとが誰だか判別がつかないまでに。

でも、不思議なことにそれほどまでに「私」を消し去ってしまうのにも関わらず、それでもって舞台上に立つと「素っ裸」になった気分なのである。自分が舞台にいるときにもそれを感じたし、何よりも他の人がやっているのを見ると一目瞭然なのだ。

 

何故、私を消し去る行為が私を裸にさせるのか?

キャサリン曰く、「変身とは、自分自身をその中において解き放つ方法」である。

自分自身を解き放つとは、自分の奥深くに潜む欲望を知ること。知って、表に出すこと。

 

クラウンが欲望から出来ているのだとすれば、クラウンこそ私の奥底にあるもの?

ここで再び「役」と「私」の関係に話が戻ってくる。

 

役を演じるときに、私が難しいなと思うのは、私自身と役との境界線だ。

ひとつ大きな手掛かりを見つけた3月。(詳細は対話の方法。世界は広い。 - 踏み台における足踏みの軌跡。にて)

今回のクラウンスタージュを通して、3月に見つけた自分なりの演じることについての精神の透明度が上がった気がする。

私が体験したことをわかりやすく説明するために、私のクラウン「Moccha(モッチャ)」に登場してもらいます。

私はモッチャであり、モッチャは私である。モッチャはお客さんがいる舞台上へと出ていく。そうすると、私は何かを感じる。例えば、「怖い」。人前に立って何かをするのは怖い。とんでもないエネルギーが渦巻いているからだ。でも、その「怖い」を表現するのは、私ではなくモッチャだ。つまり、モッチャの役割は私の感情を翻訳していくこと。

だから、何事にも最初はものすごく時間がかかる。キャサリンがモッチャに何かを語りかけたら、それを理解したり、その言葉をからだの中にぐるぐる回していく必要がある。そして、その言葉が私に、そしてモッチャにどう影響してくるかを見極める。

それと同時に、俳優自身は、役を信頼してその身を任せる勇気をもつ必要もある。

モッチャはひとりで出来るから、私が妙に心配してどうこうしなくってもいいのだ。モッチャの感性に任せよう。

その勇気だ。

一般的に「演技が上手い」の判断が私には出来ないのだけれど、こんなことを考えると、役に自分自身を任せられている状態をそう言うのかなと、今は何となく思う。

そう思うと、役が俳優に「憑依」するというよりも、むしろ俳優が役という舟に乗って水の上で揺られているイメージがしっくりする。

演技というのは、どこかゆとりがあって流れるような行為なのかもしれない。

外界からの色々を私は感じる。それを私はたっぷりと大きな舟にだらだらと広げるのだ。舟はそれを原動力に前に進んでいく。私の意志とは関係なく、勝手に、好きな方へ。

 

これはキャサリンも一週間私たちに言い続けたことだが、お客さんが笑ってくれたからといって思わずこちらも笑うのはよろしくない。

それは、モッチャが笑っているのではなく、私が笑ってしまっているからだ。

こうやって考えてみると、日本語の「素笑い」ってなかなか言い得て妙、な言葉である。「素」の私が笑ってしまうという意味なのか。(全然分かってなかった…)

この「素笑い」はエネルギーの無駄遣いであり、今モッチャが経験しようとしたことを途中で切ったことになる。

舟に流すべきエネルギーを私自身が消費してしまっている、といったところだろうか。

 

 

あまりにも広く、あまりにも哲学的で、まだ消化しきれていない。

でも、ひとつわかったことは、クラウンは演劇の一番大事な部分を両手両足広げて見せているということ。

厚い化粧の下に、膨大なテクストのうしろに、俳優は隠れることができないのだ。

私の顔でないのに、私の言葉でないのに。

演劇は、嘘をついて、本当を見せてしまう。

 

初めてだけど、写真を載せます。

私のクラウン、モッチャです。

みんなに、「化粧すると分かるけど瑞季の鼻って長いんだね!気づかなかった!」

私も知らなかったです笑

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